台湾を変えた日本人シリーズ:台湾野球の礎を築いた日本人・近藤兵太郎

文化

1931年、第17回全国中等学校優勝野球大会に出場すべく、台湾の嘉義農林学校野球部は、これまで1勝もしたことなかった台湾全島野球大会に挑んだ。連敗続きでのんびりしたチームだった嘉農野球部は、近藤兵太郎監督の鬼のような特訓を1年間受けると、選手に勝利への強い意志と甲子園出場への夢が芽生え、日本人のみの常勝チームであった「台北商業」を打ち負かして優勝した。台湾野球の歴史を塗り変えた出来事だった。

台湾の代表チームとして日本への遠征を成し遂げた嘉農野球部の快挙に、嘉義市民は歓喜した。全国大会に出場する嘉義農林ナインは、日本人3人、漢族2人、先住民族4人の民族混成チームであった。

近藤は当時、語っていた。「日本人は守備がうまく、漢人(族)は打撃に強く、蕃人(族)(先住民族)は走ることに長(た)けている。こんな理想的なチームはない」と。

身内の相次ぐ不幸もあって、心機一転、台湾に渡る

嘉農チームを育てた近藤は1888年、松山市萱町で生まれた。1903年に松山商業予科に入学し、創部間もない弱小の野球部に入った。手足が短く小柄で野球選手として決して恵まれた身体ではなかったが、誰よりも野球が好きで研究熱心で、内野・外野手として活躍し、主将も務めた。

嘉義農林野球部監督時代(提供:古川 勝三)

その後、野球部監督となり19年に松山商業を初の全国出場(夏ベスト8)へと導くが、両親、おい、姉、長女の相次ぐ死を経験した近藤は、心機一転を図るべく台湾へ渡り、嘉義商工学校に簿記教諭として勤務することになる。渡台しても松山商業の監督は続けていたため、夏休みになると毎年松山に戻り母校の監督として采配を振るった。その結果、甲子園へ6年連続出場するという松山商業野球部第1期黄金時代を築いた。

しかし、25年夏の四国予選で高松商業に大敗したため、監督を辞退し嘉義商工学校の簿記教諭に専念していた。ところが、28年の創部以来1度も勝利なき嘉義農林野球部の選手が、近藤の内地での活躍を耳にした。選手から近藤の指導を熱望された濱田次箕野球部長は、近藤を連日口説いた。その結果、コーチを条件に指導することになったのである。近藤は40歳になっていた。

差別をせず実力主義のチームを作り、甲子園初出場準優勝に導く

野球は日本人のスポーツと思われていた当時の台湾で、民族など一切関係なく実力ある者が打って走り、点を取って最後まで守り抜ければ必ず勝てるという考えを近藤は持っていた。また選手に必要なのは、野球に対する情熱と身体能力だけだと考え、実力ある者がレギュラー選手になるべきだとも考えていた。

京都の平安中学校が台湾に遠征に来た時、選手の中に3人の先住民族がいるのを見た近藤は「あれを見ろ、野球こそ万民のスポーツだ。われわれには大きな可能性がある」と選手に語り、希望を持たせた。やがて台湾最強チームを作るべく校内の部活動に参加をする生徒を調べ、有望な選手を探し出して野球部に勧誘した。そしてスパルタ式訓練で鍛え、チームを創部3年で台湾代表として全国大会へと出場するまでの強豪へと育て上げた。

当時、中堅手だった蘇正生は語る。「マムシに触っても近藤監督に触るな、とみんなでささやき合うほど怖い人だった。しかし、大変に熱心で、けがなどをした者にはとことん気を配って優しかった。真剣、必死が好きで、いつも体中から熱気が溢(あふ)れているようだった。近藤先生は、正しい野球、強い野球を教えてくれた。差別は一つもありませんでした」と。周囲からは「コンピョウさん」と呼ばれ、親しまれていた。高熱であっても、担架に乗って練習場に来た時には、選手が言葉を失ったという。

近藤監督が持ち帰った唯一の遺品(提供:古川 勝三)

バットには「一球入魂」と書き、ボールには「球は霊なり」とも書いた。近藤は「精神野球」と「データ野球」を大事にした監督だった。

初出場の選手にとって甲子園でプレイすることは、夢のまた夢であり、近藤にとっても同様だった。ラジオによる実況放送は台湾の嘉義でも聞くことができた。5万5000人の大観衆が見守る中、「KANO」と書かれたユニホームを身に着けた嘉義農林は、快進撃を続けた。第1回戦は3対0で神奈川商工に、第2回戦では札幌商業を破り、第3回戦も10対2で小倉工業を下した。嘉義市民は流れてくるラジオ放送に熱狂した。弱小だったチームが本土の強豪を次から次へと撃破するのである。

嘉農のエース、呉明捷は連投の疲労で、指の爪を剥がす大けがを負い、中京商業野球部との決勝戦ではボールを連発した。しかし、近藤に「この試合を自分の最後の試合と思って完投させてほしい」と頼み込む。呉の固い決意に感動した近藤と仲間たちは、一致団結して呉の願いをかなえようとする。しかし、石灰を傷にまぶしての呉の奮闘も、相手チームの攻勢には抗し難かった。

その時、チームメイトたちが声を掛ける。「思い切り直球を投げろ。守備は俺たちに任せろ!」「俺たちは台湾の嘉義から来た仲間じゃないか!」。球場の大観衆が驚いて見守る中、呉は歯を食い縛って一球一球、直球を投げ続ける。守りの選手たちは、一球また一球とキャッチするたびに、「いらっしゃいませ!」と叫んでは自分たちを奮い立たせた。その場に居合わせた全観衆を感動させると同時に、遠い台湾でラジオ放送を聴く台湾の人々をも興奮させた。近藤の胸は、頼りなかったメンバーが不屈の闘士に成長した姿を目の当たりにして、感慨でいっぱいになる。

球児たちの一球たりとも諦めない「ひたむきさ」「絶対に負けない」という精神が、球場の大観衆を魅了し「戦場の英雄・天下の嘉農」と称賛を浴びた。

甲子園へ赴く嘉義農林チーム(提供:古川 勝三)

当時、小説家の菊池寛は「僕はすっかり嘉義ひいきになった。日本人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる」と新聞の観戦記に書いている。

決勝戦では、吉田正男投手を擁してこの年から史上唯一の3連覇を達成することになる中京商業に敗れ、準優勝に終わった。

近藤の教えは日台問わず現代に引き継がれた

甲子園で準優勝した年に建設された嘉義球場のホームベースの位置は、近藤が「夕日が選手の妨げにならないように」と太陽の沈む位置を見て決めた。

近藤は、松山商業時代に6回、嘉義農林時代は5回、甲子園に出場している。嘉義農林を率いて春夏連続出場した35年夏の甲子園・準々決勝では母校・松山商業と対戦し、延長戦の末4対5で惜敗した。松山商業はその後、準決勝・決勝と勝ち進み、初の全国制覇を達成した。応援に駆け付けた近藤は松山商業を率いていたかつての教え子で監督の森茂雄と抱き合い、涙を流して喜んだという。

1945年、日本敗戦と共に中国から台湾接収のためにやって来た中華民国の国民党は、野球を日本文化であるとして奨励しなかったため、生まれ故郷に帰った選手たちは、各地で少年に野球を教えた。やがて、台中市の少年チームが69年にリトルリーグ・ワールドシリーズで優勝し、野球が評価されるようになる。71年から4年連続優勝し、17回の優勝回数が世界一という快挙を成し遂げた。当然のように野球部ブームが起こり、プロ野球で活躍する選手も現れ、日本の球団にも多くの選手が入団している。

近藤の主な教え子に藤本定義、森茂雄(ともに松山商)、呉明捷、呉昌征、今久留主淳、今久留主功、呉新亨(ともに嘉義農林)らがいる。そのうちの藤本、森、呉は日本の野球殿堂入りを果たしている。近藤が活躍した28年からの10年間は、台湾野球の第1期黄金時代と言っても過言ではない。台湾の野球関係者いわく「近藤監督ありて、嘉義農林野球部あり、嘉義農林野球部ありて今日の台湾野球がある」と。

台湾野球の礎を築いた近藤は46年に故郷・松山に引き揚げた後、新田高校野球部の監督や愛媛大学野球部を指導した後、66年5月19日に永眠した。77歳の生涯だった。葬儀には教え子や各界から届いた多くの花輪が、自宅前の道路数十メートルにわたって飾られたという。

新田高校野球部監督時代の近藤兵太郎氏(提供:古川 勝三)

バナー写真=嘉義大学キャンパスの銅像(提供:古川 勝三)

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