歴史に翻弄(ほんろう)された日台航路——「日本アジア航空」の記憶

政治・外交

日本と台湾を行き来する方は、普段、どの航空会社を利用するだろうか。今は、日本航空(JAL)、全日空(ANA)、中華航空(チャイナエアライン)、エバー航空、キャセイパシフィックにジェットスターなど、フルキャリアから格安航空会社(LCC)まで、10社以上の航空会社が日台間の航路を結んでいる。また、成田国際空港(以下、成田)や大阪の関空国際空港のみならず小松や静岡など地方空港からも台湾行きの便が開設され、気軽に日台間を行き来できるようになった。しかし、それはここ数年の話である。

日台間で多くの飛行機が飛び交うことは当たり前に思えるかもしれないが、実は10~15年ほど前まで、日台間の航空路は「特異」な状態にあった。日本のナショナルフラッグキャリアである日本航空は台湾への便を設定しておらず、また台湾のチャイナエアラインやエバー航空は成田空港を使用することができなかった。

1990年生まれの日台ハーフである筆者は、子どもの頃家族で台湾に帰るのが大好きだった。そのとき、よく乗っていたのが「日本アジア航空」である。ただ、「アジア」の二文字の意味はよく分かっていなかった。10年以上前から日台間を行き来している人ならば、きっと「日本アジア航空」(JAA/日本亞細亞航空)という航空会社の存在を記憶していることであろう。この「日本アジア航空」こそ、日台間航空路における「特異」な状態の象徴であった。日本アジア航空は、1974年に日中間の定期航空路を開設した日本航空が台湾路線を飛ばせなくなった代わりに設立された。

「国内」航路から「国際」航路へ

1895年に日本が台湾を領有すると、その翌年には船による日台定期航路が開設された。大阪商船や日本郵船の大型船が神戸と基隆を結び、神戸は台湾人が日本に渡る際にまず踏み入れる玄関口であった。日本で著名な台湾人小説家陳舜臣の一家も神戸の地に上陸して根を下ろし、「真珠王」として知られる台南出身の鄭旺(田崎真珠の田崎俊作を育てたことでも知られる)も戦中から戦後にかけて神戸の地で活躍した。27年に台湾共産党を立ち上げた謝雪紅は、19年から3年ほど神戸にいたという。

戦前の一時期、大日本航空などが日台間で航空路を築いていたようだが、費用面や定員は船には遠く及ばなかった。いずれにせよ、日台航路は今日の在日台湾人を生み出すポンプとなっていた。44年に入ると、日本の戦局は次第に悪化し、日台航路の船が米軍によって撃沈されるという事態が相次ぐ。日本の敗戦が決定した45年8月時点において、日台間の航路は事実上の消滅状態となっており、航路の「中断」は45年12月に在日台湾人の帰国希望者の送還が始まるまで続いた。

また第二次世界大戦の終了から5年の間に、大陸では中華人民共和国が成立し、それまで大陸を統治していた中華民国は台湾に逃れた。朝鮮半島では朝鮮戦争が勃発し、南北分断が固定化されるなど、東アジアの情勢も急激に変化した。日本は連合国軍総司令部(GHQ)統治下にあって主権の回復はしておらず、また航空禁止令が敷かれていたため日本で自前の航空会社を持つことや航空機の製造などが認められなかった。

航空機の台頭とにぎわう日台空路

船から飛行機へと取って代わられたことも、戦後日台航路の大きな特徴である。

1950年代に入ると、ボーイング707旅客機(57年初飛行)、ダグラスDC8(58年初飛行)そしてコンベア880(59年初飛行)など4発ジェット旅客機の開発が相次いだ。コンベア880は60年にかけて、台湾の民航空運公司(CAT)や日本航空さらには香港のキャセイパシフィック航空などが導入し、日台航空路にも充当された。

CATは50年代に台湾内外の航空路線を提供した航空会社としても知られ、50年4月には台北と東京を結ぶ路線を開設した。その運航資金にはアメリカの中央情報局(CIA)からの援助があり、CATは朝鮮戦争時に国連軍の物資輸送を担うなど、民間航空会社以上の活躍をした。

67年に中華航空が台北―大阪―東京に初便を就航させた。以降、CATに代わる台湾のナショナルフラッグとして中華航空が活躍することとなった。一方、日本航空は51年に成立し、台湾路線は59年7月30日に開設された。

大阪万博の開催された70年は、日本航空が大型のボーイング747型機を導入した年でもある。この時点で、日本航空と中華航空は日台間航空路において5割近くのシェアを有し、日本航空の国際線としてはホノルル線に次ぐ稼ぎ頭となっていた。そんな日台間航空路が活況を示していた頃、台湾(中華民国)を取り巻く国際環境は急変する。71年の中華民国の国連脱退、そして翌年の日本との断交である。

活況から「中断」、そして日本アジア航空の誕生へ

日本と中華民国の間で国交があり、日本の国営航空会社が台湾に就航していたことは、つまり中国への便を開設していないことを意味する。1972年9月30日、日本航空の特別便に乗った田中角栄首相は北京首都空港に降り立ち、周恩来の出迎えを受けた。その周の傍らには、日本統治時代の台湾に生まれ神戸で育ち51年に中国へと渡った林麗韞がいた。周と田中が握手を交わした場面は、長らく故郷と隔絶された状態にあった在日中国人に感動をもたらしたことであろう。しかし、それは後に台湾の航空会社が日本の空から、そして日本の航空会社が台湾の空からも消える淵源(えんげん)でもあった。

中国側は日本に対して日中航空協定締結の条件として、中台の航空機が日本の空港に並ばないこと、中華航空機が旗(中華民国国旗)を外すこと、日台間の航空協定の完全消滅の明確化などいくつかの「提案」を行っていたからである。また、日台間の航空路線の維持については条件付きで認める表明をした。

中国の提案を受け、日本の外務省ならびに運輸省(現在の国土交通省)は、①台湾には日本航空が就航しない②中華航空の大阪(伊丹)便の他空港移転③中国民航は成田空港を使用し、中華航空は羽田空港を使用する。成田空港開港前は両航空機の時間帯調整を行う④中華航空という社名と旗の性格に関する日本政府の認識は改めて明らかにする、などの案を自民党総務会に提出し、了承された。

こうして74年4月20日に北京で日中航空協定が締結された。同時に大平正芳外相は「日本政府は、台湾機にある標識をいわゆる国旗を示すものと認めていない。中華航空が国家を代表する航空会社であるとは認めていない」との談話を発表した。そのため、台湾の沈昌煥外交部長は直ちに日台間航空路の停止を発表し、翌日の便を最後に日本航空と中華航空は日台路線から撤退した。台湾との往来が必要な在日台湾人にとっては、戦後直後に次ぐ居住国と故国を結ぶ航路中断の記憶といえよう。

日台間の移動には、日本を寄港地とする大韓航空など第三国の航空会社による直行便、あるいは香港を経由するしか方法がなくなり、深刻な供給不足に陥った。ところが75年7月に宮沢喜一外相が「(台湾と国交を有する)それらの国々が青天白日旗を国旗として認識している事実をわが国は否定しない」といった答弁を行ったことで、日台の航空会社による航路の再開に向けて事態が動き出した。そして、75年8月に日本航空の子会社として「日本アジア航空」が設立され、同年9月15日に東京―台北線、翌年7月26日に大阪―台北線が開設された。一方の中華航空は75年10月1日に台北-東京線および東京経由米国行きの便を再開させるも、大阪線は再開されなかった。

日本アジア航空が築いたもの

それでも、「日本航空」が台湾路線を飛ばさなかったという事態は「異常」なことであろう。中国に就航する欧州の航空会社の中には、日本アジア航空に倣い、台湾路線用に機体の塗装の変更、あるいは別会社運航の形で対応するケースが見られた。今でも、アムステルダム-台北線には「KLMアジア(荷蘭亞洲航空)」の機体が充当されることがあるが、これも日本アジア航空と同様のケースである。

大げさに思われるかもしれないが、日本の社会科の教科書にある「世界の国」リストを見ても「台湾」の名が記されていないことや、台湾路線用に日本「アジア」航空が作られ、飛んでいたことは、日台ハーフの筆者にとってやり場のない疎外感を抱かせた。ただ、日本アジア航空は中国への政治的配慮によって生み出された会社ではあったが、台湾路線を主に運行するということもあって、国交の切れた日台をつなぐ架け橋として果たしてきた貢献は極めて大きいといえる。

今でこそ台湾は若い女性に人気の旅行先であるが、半世紀近く前、日本人は台湾を「男性天国」というまなざしで見ていたと聞く。そのため、かつての台湾は日本人に人気の「観光地」ではなかった。そのような中1976年2月、日本アジア航空は台湾出身の歌手ジュディ・オングを起用し、「台湾ビューティフル-ツアー」と銘打った女性のみの台湾ツアーを企画した。これは女性需要の掘り起こしのスタートと位置付けられよう。以降も同社は台湾の観光をPRするCMを放映し、89年には「女性にやさしい台湾」とのキャッチフレーズが用いられた。98年からは俳優の金城武がバイクで台湾の街中を走り台湾のお茶とショウロンポウを頰張るCMが放送されていた。一連のCMによって、台湾へのイメージが向上したといっても過言ではない。

そして月日とともに日台航路にも変化が訪れる。2002年には中華航空およびエバー航空の成田空港使用は許可され、06年には中華航空が32年ぶりに大阪路線を復活させた。また、05年には中台間で直行チャーター便が運航された。こうなると、「日本アジア航空」の存在価値が揺らいでくる。08年3月31日、日本アジア航空は日本航空に吸収され、翌日より日本航空が台湾路線を「復活」させた。

日本アジア航空が幕を閉じて今年で10年。この10年の間に日台間の航空路は大きく変貌した。10年10月、それまで国内線専用空用として運用されてきた台北松山空港(1979年以前は国際線の発着空港)と東京国際空港を結ぶ定期便の就航や、15年10月には関西空港と台南を結ぶ定期便が就航したことは、日台間の航空路の盛況ぶりを物語っている。

たしかに、日本アジア航空は「特異」な存在であった。そうした中において、日台間の往来が今日に至るまで不自由なく保たれてきたことは、日本アジア航空があったからこその成果ともいえる。

バナー写真=日本アジア航空のボーイング747型機(千葉・成田空港)(時事)

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