「台湾料理」は何料理?

文化

人気の旅行先としてすっかり定着した台湾だが、「台湾でおいしいものを食べる!」ことは、台湾旅行に欠かせない要素だ。日本人旅行者の小籠包好きは、鼎泰豐の店先を見れば一目瞭然だし、古都台南も美食の街として認識されるようになってきた。しかし、「台湾料理」(台菜)とはどういうものかを改めて考えてみると、説明するのはなかなか難しいことに気が付く。

台湾料理は何料理?

台湾料理とは、ということをぼんやりと考え始めると、昨年亡くなられた「老台北」(司馬遼太郎の「台湾紀行」でこう呼ばれている)こと蔡焜燦先生のひと言が思い出される。数年前の真夏のある日、台北での留学生活を始めたばかりの私は、蔡先生の饗応にあずかる幸運を得て国賓大飯店12階にあるレストランのソファ席に座っていた。初めてお目にかかった老台北は、まるで歴史博物館の音声解説のようにとうとうと台湾の歴史について語り聞かせてくれながら、私が気を抜いたタイミングを見計らって歴史と日本語の小テストを挟み込んでくるチャーミングで、油断のならないおじいさんだった。一体どれだけの料理がテーブルに並べられただろう。小テスト付き昼食会の終盤に、あまりのおいしそうな匂いにお坊さんも塀を飛び越えてしまうというあのスープが運ばれてきた。「これがかの有名な佛跳牆(ファッチュウーチョン)か!」と感動している私に老台北はこう問い掛けた。「これは何料理かな」。

日本人が出会った「台湾料理」

中央研究院の曾品滄氏によると、「台湾料理」という言葉は、日本が台湾を領有した翌年1896年に、日本人が日本料理と現地の料理を区別して呼称するために使い出した。つまり、台湾料理は、外部からやってきた日本人によって、「台湾料理」と名付けられたことにより勝手に線引きされ、突然一つのジャンルとして登場したのである。この頃から、日本人は「台湾料理」とはどういうものかをあれこれ書き記しながら、そのおいしさに魅了され続けてきた。

永島金平は、1912年に台湾総督府巡査練習生として台湾へと渡り、その後13年間を台湾で過ごした人物である。永島が日本へ戻ってから書いた『面白い台湾』(1925年)では、台湾料理が独特の表現で評されている。永島によれば、台湾料理は日本料理のように見た目を重視した体裁本位ではなく、まさに「食べる」料理なのだという。一つのテーブルを8人ほどで囲み、おのおの好きなものを突いて食べる形式は「共和政体」式で、おいしいものは早い者勝ちだから台湾人は競い合うように食べるため、話す暇がないほどだと少々大げさである。銘々膳ではなく、大勢でテーブルをぐるっと囲み、それぞれの箸やさじで直接食べ物を口に運ぶ様子は、日本人にとってはなじみのない食事風景だった。明治から大正にかけて27年間にわたり刊行された『風俗画報』(1907年)にも、こうした日台の食事風景の違いが報告されている。

台湾で出版された『台湾料理之栞』(1912年)の著者・林久三は、料理本の著者としては少し変わった経歴の人物である。林は、1895年に警察官として渡台し、後に台湾語の通訳者として活動した。『警察会話篇』『日台会話初歩』『台湾語発音心得』 などの日本人向け台湾語学習テキストも刊行している。著者が通訳者ということもあって、レシピには全て台湾語発音のルビがふられ、ちょっとした形容詞辞典まで付いている。この片仮名ルビが有用であったのかは置いておくとして、渡台した日本人女性が買い物をしたり、仕出屋に注文を出したりする際に便利なように、という著者の意図があった。登場する料理は、冬菜鴨、八宝鴨、八宝蟳羹など福建系の料理が中心で、鉄鍋一つでできる台湾料理は、西洋料理のように面倒でなく、衛生的で風味もよい!と大絶賛している。その他、日本本土で出版された『主婦之友』や『旅』などの雑誌にも台湾料理はたびたび登場し、福建式(閩菜)や広東式(奥菜)、四川式(川菜)などの系統があると紹介されている。

『旅』(1935年12月号)(提供:大岡 響子)

『主婦之友』(1956年11月号)(提供:大岡 響子)

宴会中華料理としての出発

提供:大岡 響子

台湾料理を教科書的に説明すれば、17世紀以降福建省南部の泉州や廈門から台湾へ移住してきた閩南系の人々の郷土料理がもととなり、台湾の風土や食材に合わせて変容したものだと言われている。『面白い台湾』の永島や『台湾料理之栞』の林らが料理を食べたのは、その当時多くの日本人が訪れた酒楼と呼ばれたいわゆる料亭だったはずだ。というのも、当時の出版物を手掛かりに考えてみると、台湾料理は中華料理のいずれかの系統に属する、あるいは類するものだと紹介されていて、そうした料理が並んだのは一般家庭の食卓ではなく、酒楼の宴会においてだったからである。酒楼で供された宴会料理を通じて、当時の日本人たちはさまざまな系統の中華料理に接していた。

1920年代以降、大いに発展した台北の飲食業界の代表格である江山楼の主人は、北京、広州、天津をはじめ中国大陸のさまざまな地域を訪れ、調理方法を学び、料理人も連れ帰っている。つまり、この頃からすでに台北では中国大陸の諸地域にルーツをもつ料理が楽しまれていたということになる。では、台湾料理とは、中国のさまざまな地方料理が集約された「中華料理」だと言ってしまっていいのだろうか。

台湾料理と台湾意識

提供:大岡 響子

1920年代以降、台湾料理はそのおいしさに舌鼓を打った日本人たちを通じて、日本本土の婦人雑誌でも紹介されるようになった。広東料理に似たもの(『婦女界』1924年11月号)、中華料理に似たもの、元々中華料理から出たもの(『主婦ノ友』1930年12月号、1924年12月号)と定型的に表現されながらも、中華料理よりも「味は淡泊でずっと日本人向き」だったり、中華料理とは「ちょっと変わった味」があったりすると伝えている。

こうした当時の日本人の台湾料理理解は、直接的な抗日運動はほぼ抑え込まれ、その代わりに台湾人の自治を要求する政治運動が盛んになり始めた20年代に、「台湾意識」が生じたことと、意図しないかたちで符号しているようにも思える。江山楼の後継者である呉渓水は後に、台湾料理は中華料理に由来しながらも、台湾の風土や習慣の影響を受けたことで、台湾料理は台湾料理としか言えない独自の料理を形作ったと述べている。

台湾料理を形作るもの

台湾料理には他にも忘れてはいけない要素がある。客家料理や先住民の人々の料理も台湾料理を構成する一部であるし、植民地期には日本料理の影響も受けた。現在、日本人にもおなじみの台湾グルメである牛肉麺は、第二次世界大戦後国民党とともに流入してきた200万人超の人々とともに台湾へとやってきた中国北方の料理である。

「台湾料理とは何か」を説明することの難しさは、台湾が経験してきた歴史の屈折と複雑な折り重なりからくるものだ。だからこそ、そのおいしさの背後に何があるのかについて、少し思いを巡らすことがあってもいい。

「これは何料理かな」という老台北の問い掛けに、「ふ、福建料理でしょうか」と答えた私はもちろん「台湾料理だよ!」と先生の添削を受けた。デザートのパパイアが運ばれてきた時には、もうおなかも頭もいっぱいいっぱいだった私に、老台北は直々においしい食べ方を伝授してくださった。パパイアの種が入っていたくぼみに、ラベルにX.Oと書かれた琥珀(こはく)色の液体を流し込む。「こんな食べ方知らないでしょう」という蔡先生に「これも台湾料理ですか」と尋ねると、ふふっと笑いながらひと言。「これは蔡式料理だね。」

バナー写真=台湾料理(bonchan / PIXTA)

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