新竹駅~開業105周年を迎えるターミナル建築

文化

台湾の北西部に位置する新竹市は台湾を代表する産業都市の一つである。古くは清国統治時代から台湾北西部の中枢として発展し、日本統治時代は新竹州の州都となっていた。今回は3月31日に完成105周年を迎える新竹駅について紹介したい。

清国統治時代に始まった駅の歴史

新竹の玄関口となっているこの駅舎は壮麗な風格をまとった建物である。各所に精緻な装飾が施され、それらの一つ一つがすっきりした雰囲気を醸し出している。まさに街のシンボルと呼ぶにふさわしい存在で、少し離れた場所から眺めると、その壮麗さがより深く感じられる。

新竹駅が開業したのは1893年10月30日。清国統治時代にさかのぼる。基隆(きいるん)を起点に敷設された鉄道は、まず台北までの区間が開通し、その後、新竹まで延伸開業した。日本統治時代に入った時点では新竹が終着駅だった。

この頃の新竹駅は日干しれんがを用いて造られた建物だったという。14坪(46.2平方メートル)という小ささで、駅というよりは「乗り場」という雰囲気だった。しかし、台湾が日本の統治下に入ると、台湾総督府は大規模輸送機関として鉄道を重視し、島の南北を結ぶ縦貫鉄道の敷設を急いだ。

余談ながら、96年6月15日には台湾総督府始政1周年の記念式典に参列するために台湾を訪れた内閣総理大臣・伊藤博文と海軍大臣・西郷従道、そして台湾総督の桂太郎が新竹を訪れており、この駅に降り立っている。

皇太子行啓と新竹駅

現在の駅舎が完工したのは1913年のことである。工事には5年の歳月が費やされ、3月31日に式典が催された。建坪は103.1坪(340.2平方メートル)。当初から台湾を代表する駅舎建築に挙げられていた。

当初、中央に銅葺(ぶ)きの塔が設けられ、大きな時計が据え付けられていた。これは公定時刻を市民に知らせるという意味を持ち、戦前のターミナル建築によく見られたものだった。現在は歴史建築として保存されている台中駅や、多くの人に惜しまれながら解体された基隆駅などにも中央に時計塔があった。個人で時計を持つことが少なかった時代特有のものである。

なお、23年4月19日には、大正天皇の摂政として皇太子(のちの昭和天皇)が台湾を行啓している。その際、特別客車「ホトク1」型客車に乗車した皇太子は、11時28分に新竹駅に降り立った。駅について語られた言葉などは残っていないが、この駅舎にどんな印象を抱いたのか、興味の尽きないところである。

皇太子の台湾行啓は全12日間の行程だった。新竹尋常高等小学校や新竹神社を訪れている(新元久氏所蔵)。

ドイツ建築を日本に伝えた建築士

駅舎の設計を担当したのは松ヶ崎萬長(まつがさき・つむなが)という人物である。松ヶ崎は明治期にドイツ建築を日本に紹介したことで知られ、台湾総督府鉄道部の嘱託技師として、台湾にやって来た。

松ヶ崎は1871年に13歳で岩倉具視の遣欧使節団に加わり、その後、ドイツのベルリン工科大学で建築学を修めている。帰国後は日本で最初にドイツ建築を紹介し、また、造家学会(のちの日本建築学会)の創設メンバーにもなった。近代日本の建築界の黎明(れいめい)期において重要な役割を果たした人物であることは間違いない。

松ヶ崎は台湾に到着後、台湾で最初の本格的ホテルとなる「台北鉄道ホテル」の設計に参画する。そして、基隆駅など、いくつかの建物を手掛けた。また、台北の都市計画にも関わりを持ち、商店建築なども手掛けている。

新竹の駅舎は直線を多用したドイツ風バロックと呼ばれるスタイルを踏襲し、質実剛健な雰囲気を醸し出している。特に直線で構成された屋根のラインが特色で、気品を漂わせながらも、毅然(きぜん)とした表情を持ち合わせたような印象である。

『台湾建築會誌』には興味深い記述がある。会が主催した座談会において、建築家たちは松ヶ崎を回想し、「台湾建築界の元老」と表現している。そして、純粋なドイツのスタイルを表現できる人物として敬意を表している。松ヶ崎は豪胆な性格で、酒をこよなく愛したと言われている。建築界の後輩たちに慕われる様子がうかがい知れる。

ちなみに、松ヶ崎が手掛けた物件の多くは現存しないが、新竹駅は栃木県にある元外務大臣・青木周蔵の那須別邸と並んで、往時の姿を保っている。そして、台湾においては現存する最古のターミナル建築となっている。

日本統治時代の新竹駅の様子。都市計画に従って整備された美しい家並みに壮麗な駅舎が映えたという。『古写真が語る台湾 日本統治時代の50年』(祥伝社)より

大正期のターミナル建築

現在、この駅を眺めても、建物としてはそれほどの大きさではないことが分かる。むしろ、駅を出て少し離れた場所から振り返って見た方が、その壮麗さが伝わってくるかもしれない。

駅舎の内部も思いの外、小ぶりである。特に通勤通学客の多い朝夕の時間帯は手狭な感じが否めない。コンコースは人で溢(あふ)れ返っている印象だ。

しかし、人の流れはスムーズで、混乱した様子は感じられない。その理由は動線の管理にある。日本統治時代に設けられた台湾の駅舎は、多くが改札口を駅舎内に設け、出口を駅舎脇に設けている。これによって、駅に出入りする人に流れを与え、混雑を防ぐのである。つまり、駅舎を通るのはこれから列車に乗り込む人だけで、降車客は待合室を通らずに町へ出て行くのである。

また、便所が駅舎内に設けられていないことにも注目したい。これは衛生事情が芳しくなかった時代、病原菌のまん延を防ぐべく、便所を待合室の外に設けていたことによる。こういったスタイルは日本統治時代はもちろん、戦後にも受け継がれて現在に至る。

乗降客の動線管理についても、戦後に建てられた彰化駅、台東駅、花蓮駅などは改札口と出口が分かれている。戦前に持ち込まれたスタイルは、今も理にかなった造りとして評価されているのである。

構内には側線が多く設けられ、運行上の拠点でもあった。南方にあった扇形車庫は取り壊されてしまった。1930年時の構内配線図(陳朝強氏所蔵)。

文化財としての保存、そして復元

昭和時代を迎え、町の発展とともに駅の利用者は増えていったが、戦時中は米軍による空爆を受け、大きな被害が出た。特に1943年11月25日の空襲では新竹飛行場が狙われ、鉄道施設も大きな被害を受けた。

敗戦によって日本人が台湾を去ると、中華民国が台湾の統治者として君臨するようになる。台湾総督府鉄道部は廃止され、鉄道施設は中華民国政府の管轄下に入った。運営も交通部台湾鉄路管理局によって行われることになった。

戦時下、爆撃を受けた新竹駅は終戦間もない頃に修復工事が施された。これは最小限のものにとどまったが、かえって原形が保たれることとなった。工期は1年にも満たないものだった。

その後、何度かの改築計画が検討されたが、新竹駅のように、完工時の姿を保つ駅舎は少なく、その歴史的な価値が考慮され、1998年6月23日に文化財として保存されることとなった。現在、台湾では日本統治時代の駅舎や鉄道施設が産業遺産の扱いを受け、保存されるケースが少なくないが、新竹駅はその先駆けとなった存在である。

同時に、日本国内においても、大正期のターミナル建築が現役であることは極めて珍しい。そういった意味合いもあり、2015年にはJR東日本の東京駅丸の内駅舎と新竹駅との間で、姉妹駅関係が締結された。調印式は2月12日に行なわれ、大きな話題となった。

両駅は共に日本人が手掛けた大正期を代表する駅舎建築であり、完工時期も新竹駅が1913年3月31日、東京駅が14年12月20日と、ほぼ同時期となっている。さらに、東京駅の設計者である辰野金吾もまた、松ヶ崎と同様、造家学会(後の日本建築学会)の創設メンバーだった。

なお、新竹駅は戦後、何度か改装されていたが、歴史に忠実にあるべきということで、完工時の姿に戻す作業が実施された。戦後、正面には「新竹車站」(「車站」は「駅」の意味)という表示が据え付けられ、玄関の上部にはデジタル式の時計があった。さらに壁面も明るい色に塗り替えられていた。

これらは取り外され、壁面も日本統治時代の様子に戻された。明るい雰囲気だった駅舎は重厚さを強調した往時の風格を取り戻した。威厳を強調することが重視されたかつてのデザインがよみがえった。

保存対象となっているのは駅舎だけではない。駅舎につながるホームに設けられた雨よけ屋根も、古跡の扱いを受けている。これは使用済みの古レールを用いたもので、台湾ではいくつかの駅で見られるが、保存対象とされたのはここが最初だった。

人口40万を超える都市に発達した新竹。老駅舎は時代を問わず、街のシンボルとなってきた。いつの時代も人々の記憶の中にその姿を映していくことだろう。

台湾が誇るターミナル建築。完工以来、常に街のシンボルとなってきた。夜間はライトアップされ、美しさを増す(撮影:片倉 佳史)

バナー写真=新竹駅の様子。中央に時計塔を設けるスタイルはこの時代のターミナル建築によく見られたものである(撮影:片倉 佳史)

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