台湾と沖縄の戦後秘史——大東島の嘉義サトウキビ農民の出稼ぎ体験を語り継ぐ

文化

沖縄の南大東島でサトウキビの収穫をするため、かつて台湾嘉義県大林鎮の上林地区から多数の出稼ぎ労働者が海を渡った。1970年前後のことである。上林地区では、出稼ぎ後に村へ戻ってきた人たちのうち、約30人が今も健在で、その体験に基づいた絵本の制作が進められている。こうした出稼ぎの経験は、ケアワーカーなどとして現在の台湾で働く外国人労働者の境遇を見つめ直すきっかけにもつながっている。「サトウキビ」というキーワードは、日本統治期に始まった台湾の近代的な製糖業の盛衰にも目を向けさせ、20世紀以降の台湾の成り立ちをローカルにとらえようとする視点も提供している。

台湾より南大東島へサトウキビの出稼ぎに行く

今年1月、出稼ぎ経験者の一人、簡智さん(38年生)を上林地区の自宅に訪ね、上林社区発展協会の孫家榕前総幹事と南華大学の邱琡雯教授とともに話を聞いた。孫さんは絵本の制作に取り組む中心メンバー、邱教授は同地区の出稼ぎ労働を研究する社会学者である。

簡さんが南大東島へ渡ったのは30歳を過ぎたころ。島の農家が提供した宿舎に寝泊まりし、午前中は前日に刈り取ったサトウキビを牛車で積込場まで運ぶ。積込場には運搬用の列車がやってきて、簡さんが運んできたサトウキビを製糖工場まで輸送する。午後は上林地区から一緒にやってきた女性3人とともにキビ刈りをした。畑仕事を終え、宿舎で夕飯を済ませても、仕事は続く。月桃の繊維で縄をない、刈り取ったサトウキビを結わえる準備をしてからようやく就寝する。

南大東島への出稼ぎについて話をする邱琡雯教授と簡智さん、簡さんの妻の蔡素香さん、孫家榕前総幹事(右から)、1月16日、嘉義県大林鎮上林地区(撮影:松田 良孝)

簡さんの場合、出稼ぎのために約5カ月間村を空けた。沖縄は当時米軍統治下。給料は米ドルで支払われ、計算は基隆で船に乗り込んだ時から始まる。船に乗っているときは1日1米ドルで、キビ刈りが始まると、その収穫高に応じて賃金が支払われた。キビ刈りの賃金は1日当たりでは上林地区の3倍になることもあり、簡さんは約200米ドルを懐に台湾に帰ってきた。

南大東島サトウキビ収穫従事者の2人に1人は台湾人

南大東島は那覇市の東350キロ余りに位置する。北隣にある北大東などとともに、琉球列島の東側に孤立した形で浮かんでいる。島の総面積30ヘクタールの約6割が農地で、サトウキビ栽培が基幹産業である。製糖業は大正期に始まり、1918年に製糖工場が完成。アジア太平洋戦争では「爆撃と艦砲などの被害により、工場施設はそのほとんどが使用不能の状態となった」(「南大東村村誌」)。戦後、島の糖業が再興するのは50年で、この年の9月に大東製糖株式会社が設立された。

日本では、1950年代に高度経済成長が始まった影響で、労働力が地方から都市部に流出していくが、南大東島も例外ではない。サトウキビの収穫に必要な人手が不足したため、67年から台湾人の出稼ぎ労働を受け入れている。台湾との間で外交関係が断絶する72年までに延べ3371人が来島しており、この数字はサトウキビ収穫の従事者の2人に1人は台湾人だったことを意味する。

こうした労働者を送り出した地域の一つが大林鎮上林地区だ。邱教授によると、沖縄への出稼ぎを仲介する人物が同地区にいたことから、住民が知人や親せきと連れ立って南大東を目指すようになった。簡さんの話からも分かるように、仕事の内容は同じでも南大東でもらえる賃金は上林の数倍に上り、出稼ぎから台湾に戻ってきた人が土地を購入したり、家を建てたりするケースもあった。

台湾糖業の盛衰は農村にも影響を与える

上林地区が当時すでにサトウキビ栽培地帯だったことも沖縄行きのハードルを下げる結果になった。

大林で13年に操業をスタートさせた新高製糖嘉義工場は、日本統治が終わった後は接収されて操業が続く。簡さんももともとはサトウキビ農家だ。簡さんは「サトウキビの収穫量は台湾の方が圧倒的に多かったよ。製糖工場の要求も高くて、収穫したサトウキビは切りそろえて並べることになっていたし、草や葉など余計なものも、ちゃんと取り除かないといけなかった。南大東島ではそれほど要求はされなかったね。人手が不足していたから、やり方が粗かったのかもしれないね」と振り返る。

1996年に操業を終えた台湾糖業公司大林糖廠。現在はバイテク関連部門の施設になっている、1月16日、嘉義県大林鎮(撮影:松田 良孝)

サトウキビを畑から工場に運ぶための鉄道も敷設されていた。この経験があるため、簡さんは畑から工場までサトウキビを運び込む手はずを理解しており、南大東に着くとすぐに作業を始めることができた。

南大東島でサトウキビの運搬に使われたディーゼル機関車=2月23日、那覇市楚辺2丁目の壷川東公園(撮影:松田 良孝)

大林鎮の人口は71年の4万3625人をピークに減り続け、2016年には3万1379人となった。台湾の経済発展と都市化によって農村部から労働力が流出したことに加えて、人口減少の理由を孫さんは「製糖工場が閉鎖され、働く場所がない。若い人は農業をやりたがらないため」とみる。大林の製糖工場が操業を停止したのは96年のことである。

日本統治期から展開されてきた糖業の盛衰が台湾の農村に影響を与えており、孫さんは「上林地区の出稼ぎの歴史から、私たちは台湾の成り立ちを知ることができるのです」と話す。

絵本で次の世代に出稼ぎの歴史を伝える

上林地区から南大東への出稼ぎが始まって、約半世紀が経過している。孫さんらは「出稼ぎの経験を記録することによって、その現代的な意義を考えていきたい」と、昨年から絵本『わたしのキビ刈りおばあちゃん(我的剉甘蔗阿嬷)』の制作を開始した。文案や図案の作成は、台湾の国立嘉義大学ビジュアルアーツ学部の胡惠君副教授(デザイン学)とその学生がサポートし、表紙と裏表紙合わせて18ページの試作版が出来上がっている。

『わたしのキビ刈りおばあちゃん(我的剉甘蔗阿嬷)』の一場面(撮影:松田 良孝)

船酔いに悩まされながら南大東島に渡った村の人たちが、昼夜を問わず働き続ける姿や、村に残してきた子どもたちを思う親心が柔らかなタッチで描かれている。帰国間近に土産を買い込む表情はにこやかで、養命酒や家電製品、日本製の医薬品が細かく描かれているところは体験者のインタビューでから再現したものである。

試作版は女性たちの体験を中心にまとめられており、男性の簡さんが牛車でサトウキビを運搬した経験などには触れられていない。孫さんらは内容をさらに改訂し、作品の完成度を上げていくことにしている。絵本の一場面を立体画像で表現しようとするアイデアの実現にも取り組む。

南大東島への出稼ぎ経験を、台湾に来る外国人労働者のために役立てる

南大東島の農家が大林の人たちのために、午後の休憩にちょっとした食べ物を用意したり、病院へ連れて行ったりする様子も出てくる。この場面が印象に残るのは、続いてこんなせりふが用意されているからだ。

出稼ぎを経験したおばあちゃんが孫に語り掛ける。

「台湾には今、東南アジアからたくさんの人が働きに来ているでしょ?南大東の農家の人たちが台湾の人たちに良くしてくれたように、台湾に働きに来ている人たちにも良くしてあげようね」

孫が答える。

「お隣のおばあちゃんは、インドネシアから来た人にお世話してもらっているね」

かつて村の人たちが沖縄で体験した外国人労働者としての経験と、今まさに台湾で外国人労働者として暮らしている人たちの境遇を重ね合わせてみようという視点である。

多数の外国人労働者を受け入れている台湾では、高齢者の介護でも外国人労働者の役割が無視できなくなっている。孫さんによると、上林地区ではインドネシア人15人、ベトナム人1人が高齢者の家庭介護に当たり、その数は増えそうだという。

孫さんは「大林の人たちは、貧しかったから沖縄へ出稼ぎに行った。その体験から、インドネシアなどから働きに来ている外国人が今、台湾でどのような苦労をしているのか考えるきっかけになる」と話す。台湾の農村から沖縄の小さな島への出稼ぎ経験が、台湾の「今」を見詰め直すきっかけを与えていた。

参考文献

  • 『南大東村村誌(改訂)』南大東村村誌編集委員会編、南大東村役場、1990年
  • 『琉球製糖株式会社四十周年記念誌』若夏社編、琉球製糖株式会社、1992年
  • 『出外 台日跨國女性的離返經驗』邱琡雯、聯經出版、2013年
バナー写真=1967年 2月27日に撮影された南大東島の写真(沖縄県公文書館所蔵、琉球列島米国民政府撮影)。後方はサトウキビ畑とみられ、右後方にはサトウキビを積んだ荷車が見える。

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