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台湾を変えた日本人シリーズ:台湾の上下水道を整備した日本人・浜野弥四郎

古川 勝三【Profile】

[2018.05.13]

恩師バルトンと共に台湾に渡る

浜野弥四郎は、1869年9月9日に千葉県成田市で生まれた。90年第一高等中学校予科を卒業し本科に進んだ後、96年7月に帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。卒業式の翌日、恩師で帝国大学工科大学の衛生工学講師のウイリアム・K・バルトン先生に呼び出された。

神戸市の技師長当時(提供:古川 勝三)

「浜野君、僕と台湾に行って一緒に仕事をしてくれないか」

内務省衛生局長の後藤新平からも「台湾に上下水道を整備して風土病をなくしたい。この仕事を任せられるのは君しかいない」と懇願されたという。

95年、台湾と澎湖島を領有した日本政府が、風土病に苦しんでいることは聞いていた。74年の牡丹社事件から台湾平定までに死亡した日本兵はおよそ4800人いたが、戦闘による死者は162人で、残りの4642人は風土病のために死亡したという。当時の台湾は、人と家畜が-緒に暮らすような不衛生な状態だった。良質な井戸水は財閥や豪族が独占したため、多くの民衆は雨水か河川から飲料水を得ていた。当然、街の排水溝は汚染水があふれ、マラリア、コレラ、ペスト、アメーバ赤痢などの風土病がまん延していた。

そのため、平均寿命は30~40歳という低さで、内地では「瘴癘(しょうれい)の地」といわれ役人でさえ渡台をちゅうちょするありさまだった。事実、第3代総督の乃木希典は、風土病を恐れ家族同伴による渡台をためらったが、母親に「上の者が家族を連れて行かずに、部下に示しが付くか」と諭され、母親を同伴したところ総督の心配は現実となり、渡台後間もなくして母親がマラリアに冒され台湾で亡くなっている。

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  • [2018.05.13]

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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