九份、このままではいけない

文化

今の九份に愛着を感じない

「妙さん、九份を案内してください」「一青さんと九份に行きたい」

こんな言葉を掛けられるたびに、私は暗い気持ちになる。なぜなら、人を案内できるほど、私は今の九份に愛着を感じていないからだ。

九份の街は、台湾の新北市瑞芳区の山間部にあり、中心都市の台北駅から車で1時間弱の場所にある。台湾旅行のパンフレットには、大抵、メインストリートに連なる赤ちょうちんと急な石段の九份の街並みの写真が掲載されている。スタジオジブリのアニメ「千と千尋の神隠し」のモデルになった場所だと信じられており(実際は違うらしいが)、日本人の間で九份の知名度は、台湾を象徴する観光地と形容していいほど、不動の地位を築いている。

ところが、私は、現在の九份がどうしても好きになれない。

友人や日本の親戚を連れ、九份に行くたびに、がっかりさせられる。

「没有(ない)」「趕快(早くして)」「不知道(知らない)」「不行(ダメ)」

聞こえてくるのは商店街の店員の殺気立った声ばかり。人情味のかけらもない。宣伝しなくても、次から次へとお客さんが観光バスで運ばれてくるからだろう。九份の老街は、殺伐とした空気に包まれている。

提供:一青 妙

観光客だって厳しい目を持っている。どこにでもあるような土産物。他の都市でも味わえる食べ物。うるさい店員の客引き合戦。九份に実際行った人は、落胆し、「一度行けばいい」と感じる人も少なくないのではないだろうか。

九份の街並み(撮影:一青 妙)

いつかしっぺ返しを食うような気がしてならない。

ゴールドラッシュに沸いたかつての九份

私の一族は、九份のおかげで台湾の5大財閥の一つに数えられるほどになった。九份の街の成長とともに顔家も成長してきた。九份には、曽祖父の顔雲年の功績をたたえる碑や、祖父の顔欽賢の寄付で建設した「欽賢中学校」がある。私にとって九份は故郷に等しく、愛着もある。だからこそ、九份の行く末が心配なのだ。

欽賢中学校(撮影:一青 妙)

九份という地名は、一帯には家が9軒しかなく、物売りにいつも「9つ分」と頼んでいたことが由来だと言われている。その九份が観光地として賑(にぎ)わうようになったのは30年ほど前。台湾映画の巨匠・侯孝賢が、映画「悲情城市」のロケ地として選んだのがきっかけだ。「悲情城市」は2・28事件を初めて映画化し、世界で評価された。それまで静かだった街が、観光地への第1歩を踏み出した。

九份の繁栄は過去にもあった。日本統治時代に入り、九份の地に金が眠っていることに目を付けた明治期の関西財界の重鎮・藤田伝三郎が「藤田合名会社」をつくり、金鉱を採掘した。そして、顔雲年は、藤田組より九份一帯のほとんどの採掘権を受け継ぎ、「台陽礦業株式会社」を立ち上げ、金を掘り、金で財を成したというわけだ。

台陽礦業株式会社(撮影:一青 妙)

1917年、九份の金の産出量は最高となり、東アジア一の金鉱山として栄え、ゴールドラッシュで数万人の人々が移り住んだ。学校、映画館、商店、酒楼が次々とでき、その繁栄ぶりは「小香港」(リトルホンコン)と呼ばれた。

金鉱は70年代に入り閉山した。煌々(こうこう)とともっていたネオンは徐々に消え、九份は再び静閑な街に戻った。

幼いころ、父に連れられて九份に行ったことがある。山の中腹に会社の事務所があり、トロッコに積まれた石や砂利のようなものや、ショベルカーが置いてあった。少量だが、石炭の採掘を行っていた。父の作業用のヘルメットを欲しがり、かぶったらぶかぶかで前が見えなくなって怖くて泣いた。

周囲には、お土産を売っている商店など1軒もない。雨の多い九份で、雨漏り防止のためにコールタールで塗られた真っ黒な民家の屋根や壁が、日光を浴びて黒光りした様がもの寂しげで、印象的だった。

「半日観光」では九份の醍醐味を体験できない

いま、2度目の春を迎えている九份だが、もともとは“金の鉱山であった”ことを、一体どれくらいの人たちが認識しているだろうか。

台湾を代表する観光地でありながら、観光のための整備が足らず、著しく遅れているように思う。今年のゴールデンウィーク中にも訪問客が混雑で立ち往生したことがニュースになった。特に交通問題は深刻だ。九份までの山道は細く、大型のバスが鉢合わせすればたちまち交通渋滞が起きてしまう。駐車場も不十分な数しかなく、休日にもなれば、私有地を駐車スペースとして貸し出す人が後を絶たない。

大型の宿泊施設もない。九份は夕暮れから夜にかけての景色に醍醐味(だいごみ)がある。夕日であかね色に染まる山々と、黄金色に輝き始める海が重なり合う様は、一幅の上質な絵画を眺めているような穏やかな気持ちになる。漆黒の暗闇に包まれる街の赤ちょうちんに灯がともり、かつて金鉱の街として栄えていたころのにぎやかな歌声や、笑い声が聞こえてきそうなムードに覆われる。見下ろす漁港には、気持ち良さそうに、漁船のあかりがゆったりとプカプカ動いている。明け方の九份は、朝靄(あさもや)とともに、幻想的で静寂に包まれた別世界が現れる。

九份の夜景(撮影:一青 妙)

しかし、九份は「半日観光」が、いつのころからお決まりのコースとなっており、夜の九份を楽しんでもらうすべがない。夜を過ごさなければ知り得ない九份の姿があるのに、ほとんどの人が大混雑の商店街を必死な思いで歩いて、疲れ果てて台北に戻るのであるから本当にもったいない。

こんな九份だから、外国人の人気とは裏腹に、台湾人の友人たちの間では「九份のどこが面白いの?」「行っても何もない」「日本の友達を案内するときだけ行く」と言われるほど、あまり人気がない。

歴史遺産として価値を高めた「金瓜石」

一方、同じ金山として一時代を築き上げた隣街の「金瓜石」はだいぶ様子が違う。「黄金博物園区」があり、坑道の一部に入坑したり、採金体験をしたりすることができ、金瓜石がかつて金山だったことが存分に理解できる。

日本統治時代の建物や神社、街並み全体が保存されているので、当時の様子に思いをはせ、歴史の勉強にも役立つ。商店もあるが、九份のように騒がしくない。かつての精錬所であった13層遺跡もあり、金瓜石にはそこでなければ体験できない特別な魅力がある。

九份の方が有名かもしれないが、観光地としては金瓜石の方がずっと価値がある。九份はブームが去れば、あっさりと忘れ去られてしまいかねない。

九份は「産業遺産」としての価値をアピールすべき

どうしたら九份をより魅力的な観光地にできるだろうか。一つは「産業遺産」の価値をアピールすることだ。九份の問題は、産業遺産であるのに、その魅力が全く活用されていないところにある。

最近、私は日本の新潟県にある佐渡金山と島根県の石見銀山をそれぞれ訪問した。佐渡金山はまさに鉱山のテーマパークと言っていいぐらい、広大な敷地の炭鉱跡を地下に入って見て回れるようになっていた。石見銀山は世界遺産に指定されているだけあって、鉱山跡が昔のままの姿をとどめており、江戸時代の武家屋敷や代官所跡、銀山で栄えた豪商の住宅なども並び、中には、古民家を改修した民宿やレストランもある。どちらも、歴史を語れる観光ガイドが常駐し、見応えのある観光地となっていて、九份にとって学ぶべきところは多い。

九份旧坑道(撮影:一青 妙)

重要なのは、九份に住む「人」がアピールすることではないだろうか。現地にいる人々が、自分たちの住む場所に愛着と誇りを持つことで、郷土愛から土地へのアイデンティティーが生まれ、良さが自然と広がっていく。

九份には、昔から住んでいる人たちが大勢いる。ところが、観光をビジネスとする層と、地元住民との間のつながりがいま一つ希薄で、かみ合っていないのではないだろうか。そこには、私たち顔家の責任もある。今も九份の土地の多く部分は顔家が所有しており、関わりはなお深い。

だいぶ前のことだが、九份にロープウエーをかけ、山の麓から老街まで景色を楽しみながら、行きやすくするという案を、政府が持ち掛けてきたこともあった。諸条件がうまく整わず、結局実現されなかった。他企業からの開発案などもあったそうだが、九份の未来について顔家がリーダーシップを発揮したことは、私が知っている限り、なかったように思う。

九份をさらに魅力ある観光地にしたい

悲観的なことばかりでもない。九份にも、志を持った人は少なくない。風景や空気に引かれた多くの芸術家が移り住んでいる。彼らは茶芸館や民宿を経営しながら、今の九份の在り方に疑問を持ち、九份ならではの独特の文化をもっと育てたいと奮闘している。

まとまった人数を収容できるホテルの整備。日本統治時代に発展をとげた台湾の金鉱山遺跡としてのブランディング構築。駐車場問題の解決。歴史を学べる九份博物館の建設。

九份をさらに魅力ある観光地にしていくに当たり、アイデアはどんどん湧き上がってくる。

顔家は九份での金と石炭の採掘が終焉(しゅうえん)を迎えた後、事業の転換がうまく図れず、企業として、表舞台から静かに姿を消した。だが、九份の歴史は、顔家の歴史そのものだ。顔家が九份を何とかしなければ、誰ができるのか。今後、九份のさらなる発展について、顔家がどのような役割を果たせるのか、私も微力ではあるが、顔家の中で声を上げていきたい。

今の九份に危機感を持つ台湾の人たちと協力しながら、人を連れていきたくなる「私の九份」を実現していくように、頑張るつもりだ。

バナー写真=台湾九份(genki / PIXTA)

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