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台湾を変えた日本人シリーズ:国際貿易港を造った川上浩二郎と松本虎太

古川 勝三【Profile】

[2018.07.07]

天然の良港に恵まれなかった台湾

台湾の面積は九州とほぼ同じ大きさだと言われるが、入り江が少なく海岸線の長さは九州の3分の1程度である。したがって、天然の良港と呼べる場所は少ない。ただ、台南には台江と呼ばれる天然の入り江が存在した。大航海時代にやって来たオランダ人は、1625年に台南の湾の奥にプロビデンジャ城を、30年には湾の入り口にゼーランダ城をそれぞれ築き、台湾統治の拠点としている。その後、安平港が造られ、鄭成功の一族や清朝もこの港を利用しながら中心を台南に置いた。

台湾島の中央には3000メートル級の高山が縦走しており、陸上交通はほとんど近代まで発達せず、代わりに人々の交流は、海上交通に頼っていた。ただ清朝末期に比較的発達していた基隆港や高雄港、淡水港などは、入港できる船はジャンクか小舟に過ぎなかった。

冬期には、北東風や北からの季節風のため荒波が収まらず、多数の船が難破した。加えて、港内の水深は浅く、内港の半分は干潮時には露出してしまうほどで、岩礁も多いため船が少しでも大きいと利用できない状況だった。

日本統治時代初期の基隆港は、沖縄、門司、長崎との間に2000トン級の定期航路が運航されていたが、港に着くとサンバン(木造の小型船)に乗り換えて上陸しなければならなかった。

初代台湾総督の樺山資紀は、総督就任後、直ちに縦貫鉄道の建設と基隆築港を政府に願い出て認可されている。その点からも、いかに基隆築港が急務であったのかが分かる。第4代総督の児玉源太郎の時代にも基隆築港工事は4大事業の一つに組み込まれている。

海に囲まれた台湾にとって港湾事業は極めて重要であり、台湾縦貫鉄道建設のための資材運搬にとっても、基隆と高雄の港湾を早急に近代化する必要性があった。その事業に多大の貢献を果たしたのが川上浩二郎とその後を継いだ松本虎太という二人の人物である。

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  • [2018.07.07]

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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