台湾を変えた日本人シリーズ:国際貿易港を造った川上浩二郎と松本虎太

文化

天然の良港に恵まれなかった台湾

台湾の面積は九州とほぼ同じ大きさだと言われるが、入り江が少なく海岸線の長さは九州の3分の1程度である。したがって、天然の良港と呼べる場所は少ない。ただ、台南には台江と呼ばれる天然の入り江が存在した。大航海時代にやって来たオランダ人は、1625年に台南の湾の奥にプロビデンジャ城を、30年には湾の入り口にゼーランダ城をそれぞれ築き、台湾統治の拠点としている。その後、安平港が造られ、鄭成功の一族や清朝もこの港を利用しながら中心を台南に置いた。

台湾島の中央には3000メートル級の高山が縦走しており、陸上交通はほとんど近代まで発達せず、代わりに人々の交流は、海上交通に頼っていた。ただ清朝末期に比較的発達していた基隆港や高雄港、淡水港などは、入港できる船はジャンクか小舟に過ぎなかった。

冬期には、北東風や北からの季節風のため荒波が収まらず、多数の船が難破した。加えて、港内の水深は浅く、内港の半分は干潮時には露出してしまうほどで、岩礁も多いため船が少しでも大きいと利用できない状況だった。

日本統治時代初期の基隆港は、沖縄、門司、長崎との間に2000トン級の定期航路が運航されていたが、港に着くとサンバン(木造の小型船)に乗り換えて上陸しなければならなかった。

初代台湾総督の樺山資紀は、総督就任後、直ちに縦貫鉄道の建設と基隆築港を政府に願い出て認可されている。その点からも、いかに基隆築港が急務であったのかが分かる。第4代総督の児玉源太郎の時代にも基隆築港工事は4大事業の一つに組み込まれている。

海に囲まれた台湾にとって港湾事業は極めて重要であり、台湾縦貫鉄道建設のための資材運搬にとっても、基隆と高雄の港湾を早急に近代化する必要性があった。その事業に多大の貢献を果たしたのが川上浩二郎とその後を継いだ松本虎太という二人の人物である。

基隆の難工事を完成させた川上浩二郎

川上浩二郎(提供:古川 勝三)

川上浩二郎は1873年6月8日、新潟県古志郡東谷村に生まれた。95年7月高学を卒業するとわが国における土木事業が急務であるとの考えから、東京帝大工科大学土木工学科に入学。98年7月に卒業後、直ちに農商務省の技手になり、翌年の7月には台湾総督府技師として台湾に渡った。その頃の台湾は、盗賊が横行し、風土病がはびこる「瘴癘(しょうれい)の地」と言われていた。そのような環境で99年には基隆築港第1期工事が4年計画で開始されていた。川上も1900年8月に基隆築港局技師兼台湾総督府技師として、基隆築港に取り組み、波浪から港を守る防波堤工事と港内の水深を整える浚渫(しゅんせつ)工事を主導した。01年12月26日には英国領インドやオランダ領ジャワ島、欧州港湾視察に2年間赴いて見識を深めている。

基隆築港第2期工事は、06年から6カ年計画で開始された。この年、京都帝大を卒業したばかりの青年が基隆築港局工務課に技手として赴任してきた。川上の後継者となる松本虎太である。

基隆の海底は軟弱な地質だったため、第2期工事は困難を極めた。09年10月に基隆築港局出張所所長専任になった川上は、海外諸港の岸壁工事の失敗例や困難工事を調べ上げ、参考にした。材料調達や岸壁の設計並びに工事の実施方法については厳密な試験を重ね、難工事を一つ一つ乗り越えた。その結果、770メートルの岸壁建設、港内の岩礁撤去、内港防波堤構築、倉庫の建設など大掛かりな工事を行い、6000トン級の船舶を同時に13隻係留できる港を12年に完成させ、第2期築港工事を竣工(しゅんこう)した。

川上は、困難を極めた基隆築港とその時の心境を「基隆築港の地点は海がばかに深いのみか、潮の流れが急で自他ともに許す一流技術家の誰でもが処置なしの難工事でした。自分自身もいくどとなく失敗をくり返したが、この苦難にたえ、だれがどんな非難を浴びせようとも、これを完成させるのは自分以外には絶対にないという信念に燃えて、ついにこの工事を完成させた。だから人間はどんな苦境に立っても、断じて自信を失ってはならない」と郷里での講演で語っている。

第2期工事が完了すると「基隆港の岸壁を論ず」という題の全5編の論文を書き上げ、東京帝大の工学博士号を取得している。基隆築港に大きな業績を残した川上は、16年10月2日、本人の希望により総督府を辞して帰国した。その後は、博多湾築港株式会社専務取締役に就任し、福岡筑豊線の敷設や博多港築港に従事し、33年3月29日に死去した。享年61歳であった。

川上には、こんなエピソードが残っている。1920年頃、川上のおいが友人と台湾を旅行した際、おいであることを知った船長が、特別待遇で歓待し、食事は全てボーイが注文をとり、それを船室に運んでくるという待遇ぶりだったと言う。

巨大船舶が多数停泊できるように変えた松本虎太

松本虎太(提供:古川 勝三)

川上の後を引き継いだのが技師の松本である。松本は1879年10月17日に香川県綾歌郡陶村で生まれた。1903年に京都帝国大学土木科に入学し、06年に卒業すると直ちに台湾に渡り、基隆築港局工務課技手として川上の下で基隆築港に携わった。その後、台湾総督府工事部技師、土木部技師として活躍し基隆築港所所長に任命されると、第3期および第4期基隆築港工事の設計を行って、工事の監督・指導に携わった。

所長になった松本は基隆港の当面の問題を解決するため大規模な拡張計画を立てた。まず取り組んだのが、岸壁裏にある石造倉庫の増築と、高雄から廻航して来た新竹号での浚渫工事だった。第4期工事は35年まで続けられるが、工事によって港湾区域内部にあった暗礁が取り除かれ、大型造船所と軍港区域、漁港区域が建設され、埠頭倉庫から港湾区域までの線路が整備された。 4期にわたる築港工事の結果として、その後の基隆港発展の基礎が固められたばかりか、70年代に基隆港を台湾トップの港湾にすることにつながった。基本計画では現在の岸壁を約700メートル伸ばし4000トン級の船舶4隻を同時に係留し、年間80万トンの石炭を積み込む設備を構築し、その奥には、3000トン級と1万トン級の修繕船渠(きょ)を置くことにした。

さらに、560メートルの岸壁の水深を9~10メートルとして6000トンから1万トンまでの船舶を係留し、最後の420メートルの岸壁の水深を11メートルにして1万5000トンまでの船舶が横着けできるようにした。この結果、3000トンから1万トン級の船舶を15隻、浮標にも同じ大きさの船舶を6隻係留し、合計21隻の船舶が安全に内港に停泊できる近代的な港湾設備が完成した。

1925年ごろ基隆市役所が作成した基隆港完成予想地図(提供:古川 勝三)

米軍の爆撃で廃墟になるが、戦後に国際貿易港として復活

その後、大阪港や門司港と基隆港を結ぶ航路が大阪商船や日本郵船によって運営され、8000トンから9000トン級の客船が往来するようにもなった。

1930年ごろの基隆港岸壁の様子。30トンの電動クレーンが設置され大型貨客船が係留されている(提供:古川 勝三)

松本は基隆築港のめどが立つと、砂の堆積がひどく使用不能になっていた安平港と台南市内を結ぶ台南運河の設計と施工の指導監督を行うため台南に拠点を移し、1923年に着工し4年後に完成させた。また36年には台南の玄関口、安平港も整備し完成させている。翌年には基隆港を見下ろす旭が丘に顕彰館「松本虎太記念館」が建設されたが、戦後は放置され荒れた状態になっている。

基隆には日本軍の基隆要塞があり、41年に第二次世界大戦が始まると、物資輸送や海軍基地として重要になった。このため、大戦末期には攻撃の矢面に立ち、米軍の爆撃の主要目標となった。港湾埠頭施設と停泊していた船舶は全て深刻な被害を受け、港湾区域は廃墟となった。

現在も現役の旧基隆港湾合同庁(提供:古川 勝三)

日本人の多くはまず基隆港に上陸して台湾の大地に第一歩を記したが、戦後は上陸したその基隆港から引き揚げていった。松本は戦後も留用日本人として台湾に残り、台湾電力の維持のため顧問となって協力し、2年後の47年に基隆港から引き揚げ、59年80歳で生涯を終えた。川上、松本の両技師が造り上げた基隆港は、台湾における国際貿易港として今日も活況を呈している。

基隆港から出港する蓬莱丸(提供:古川 勝三)

バナー写真=現在の旧日本郵船基隆支店(提供:古川 勝三)

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