デジカメと「黒潮」漂流史

文化

今年3月、水中撮影用のハウジングにびっしりと貝が付着した1台のデジタルカメラが日本と台湾で注目を集めた。インパクトのあるビジュアル。2015年9月に沖縄県八重山地方の石垣島沖でダイビング中に行方知れずになったデジカメが、約2年半を経て台湾東部の蘇澳鎮の海岸に漂着しているところが見つかったというのだ。このニュースは日本と台湾の双方で話題になったが、違和感を覚えた人がいたのではないか。石垣島と台湾の間を流れる黒潮を、デジカメがまたいだことになるからである。いったいどうやって? しかし、よくよく調べてみると、沖縄や台湾の近海ではさまざまな漂着事件が起きており、しかも歴史上、少なからぬインパクトを与えていることが分かった。今回の「デジカメ事件」も、この漂着史に何らかの形で列せられることになるのだろうか。

学校の清掃活動で児童が偶然に発見

デジカメの発見者は蘇澳鎮岳明小学校5年の何兆恩君(11)。18年3月27日、全校児童が参加する無尾港海岸の清掃活動で偶然に見つけた。担任の李公元教諭も一緒になって調べたところ、デジカメは正常に作動し、15年5月30日と9月7日に撮影された動画と静止画合わせて982点のファイルが保存されていた。

その後、李教諭は保存されていた写真の数枚をフェイスブックにアップし、持ち主探しを始めたところ、翌日に持ち主が判明した。

このデジカメは、キヤノンのPowerShot G12。キヤノン広報は筆者の問い合わせに対して「一定時間使用しないと自動的に電源が切れる仕様のため、バッテリーの消費が抑えられ、(漂着後も正常に)作動したものと思われます。バッテリーが2年後に作動することについては、十分な性能試験を製品開発において行っているため、それが寄与したものと受け止めております」とコメントした。開発段階で試験済みの機能が今回の漂流でも正常に稼働したというわけだ。

牡丹社事件から導く手掛かり

石垣島は、沖縄県の八重山地方に属する。八重山地方に含まれる与那国島は黒潮を挟んで台湾と接し、その距離は最短で111キロ(石垣島とは約230キロ)。台湾側で最も与那国島に近いのが蘇澳鎮である。黒潮の流路はフィリピン東方付近から台湾東方を経て、東シナ海に入り、房総半島沖に達し、気象庁は「世界有数の流れの強い海流」と説明する。その強さとは「黒潮の流速は通常、海面から深さ200メートル付近までの間で最大となり、秒速最大2.0~2.5メートルに達することもある」というもので、時速にすると最大で7~9キロ。一見遅いようだが、1日で200キロ前後移動すると考えれば、なかなかなものだ。

こうした黒潮の流れは、南西側から北東へと向かうメイン・ストリームの他に、「反流」と呼ばれる逆向きの流れがあり、漂流のルートを複雑にしている。さらにそこへ風という要素も加わる。

1871年11月に台湾南東岸の八搖湾に漂着した沖縄県宮古島からの船を例に挙げよう。琉球王府への献納を終えて宮古へ戻ろうとしていた乗組員69人の船は台風のために漂流し、3人が海岸で溺死し、66人が生き残るもこのうちの54人が殺害された。3年後の74年に明治政府が行った台湾出兵につながる牡丹社事件である。

1871年に沖縄県宮古地方の人たちが乗った船が漂着した八搖湾=2011年11月25日、屏東県満州郷(撮影:松田 良孝)

同事件について研究している琉球大学法文学部准教授の大浜郁子氏は「日本は、出兵が日本の領土内の民が殺害されたことに対する義挙だとの主張を通すことによって、琉球の所属が日本にあるということを清国に認めさせ、いわゆる『琉球処分』の契機となった」と指摘する。

この船は、琉球王府のある沖縄本島から台湾まで流されてきたので、台風のエネルギーによって黒潮をさかのぼったことになる。黒潮をかわして台湾にやってきた漂着者の運命が、後に東アジアの版図を変え、台湾、中国、沖縄、日本の歴史に大きなインパクトを与えたことになる。

『朝鮮王朝実録』にもヒントが

15世紀に作成された済州島民の漂流記というものもある。朝鮮王朝実録(李朝実録)に含まれており、それによると1477年、朝鮮半島南部の済州島を出発した船が漂流し、乗組員3人は2隻の船に助けられた後、半年近くの間、「閏以是麼」という場所に留め置かれることになった。「閏以是麼」は現在の与那国島を指す。

与那国島。1477年に済州島の人たちが漂着し、朝鮮王朝実録に収録された聞き取りの内容から当時の暮らしの様子が分かる。中央に突き出ているのは西崎灯台で、台湾の蘇澳まで100キロ余りしか離れていない=2003年7月4日(撮影:松田 良孝)

地図を頭に思い描いてみても、済州島と与那国島はなかなかつながらない。それもそのはず。与那国島は、済州島から南南西にはるか1000キロ余り離れたところに浮かんでいるのだ。

『朝鮮王朝実録』を読むと、3人は漁船に助けられるまでの間、風に翻弄(ほんろう)されていたことが分かる。こうして3人は黒潮を渡るか、何らかの理由でかわすかして、与那国にたどり着いたのである。

漂流記は、八重山の人々の暮らしぶりを示す最も古い記録としても知られる。そこには、アワを中心とした農耕などが示されており、中央研究院の黄智慧氏は台湾の先住民との間に類似性を見出そうすることによって「東台湾海」という概念を編み出していく。漂流・漂着の経路が直接台湾と関係するかどうかは分からないが、八重山など沖縄と台湾との関係を考えるヒントを与えたという意味で台湾にとっても無視できない事件だったといえるだろう。

科学による知見か、冒険家の感性か

さて、デジカメである。

2009年にヨットで世界一周を果たした沖縄県竹富町の前田博氏は「基本的には3ノット(時速5.5キロ)の黒潮に逆らって蘇澳鎮に漂着したことになる。自然のなせる技だ」と話し、「この奇跡は、冬型季節風の北東風とそれによって引き起こされる波の力、そして黒潮反流のタイミングが合ったことによるもの」と指摘する。反流と季節風が黒潮をさかのぼらせたというわけだ。

別の見方も示した。石垣島から黒潮に乗って北上したデジカメが太平洋を回って再び黒潮の流れに乗り、台湾に漂着したというのだ。「八重山諸島に近づくウミガメの中には、黒潮に乗って北上し、北米大陸の西海岸を南下して赤道上を西進して、生まれ古郷のフィリピン近海に戻る個体もあるという研究がある」と前田氏。「太平洋回遊説」とでも呼びたくなる見立てである。

自分で体を動かせるウミガメと、潮任せのデジカメを同列に考えることはできない。たとえば、1995年からウミガメの調査が行われている澎湖諸島の望安郷では産卵のために上陸するウミガメが激減しており、原因の一つとして観光が挙げられている。「行楽客が産卵場所に立ち入ったために、ウミガメが産卵しないようになった」(17年7月31日付「聯合報」)との指摘があり、ウミガメが波任せで漂っているわけではないことを示している。

92年から石垣島でウミガメの調査を続ける石垣島ウミガメ研究会の谷崎樹生会長は、デジカメのハウジングに付着した生き物に着目する。谷崎氏は「インターネット上の写真を見る限り、カルエボシばかりのように見える。北太平洋北部を横断したのなら、ムラサキイガイや北方系のフジツボが付いていたはず」と指摘する。谷崎氏によると、カルエボシは世界に広く分布する貝で、ムラサキイガイは水温29度以上では生きられない。だとすると、カルエボシが付着していることでは漂流経路の推定は難しいものの、低い水温を好むムラサキイガイや北方系のフジツボが見られないことは、デジカメが黒潮を北上して太平洋を回遊する旅から戻ってきたとする見立てとはうまく両立させられないことになる。

ハウジングを詳細に調べたら、海洋生物の専門家が培ってきた知見によって漂流ルートがもう少しはっきりしてくるであろう。一方、冒険家としての前田氏が「太平洋回遊説」のことを「ロマン物語」と表現したその言葉も耳にやさしい響きを持つ。

2年半かかって黒潮をまたぎ、偶然にも持ち主の元へ返ったデジカメには、科学による究明も、冒険家ならではの言葉も、どちらもふさわしい。

ハウジングに入った状態で2年半漂流していたデジタルカメラ(提供:蘇澳鎮岳明小学校の李公元教諭)

バナー写真=貝がびっしり付いた状態で見つかったデジカメ入りのハウジング=3月27日午前、台湾宜蘭県無尾港海岸(提供:蘇澳鎮岳明小学校の李公元教諭)

参照

  • 山口晴幸『ひげ先生の書簡 漂着ゴミ―海岸線の今(いま)を追って』(文芸社/2002年)
  • 黄智慧「移動と漂流史料における民族の接触と文化の類縁関係―与那国島と台湾―」(津波高志『東アジアの間地方交流の過去と現在―済州と沖縄・奄美を中心にして』彩流社/2012年)
  • 和田久徳ら「李朝実録の琉球国史料」(南島史学会『南島史学 第44号』/1994年)
  • 「成宗大王実録 巻105」(谷川健一編『沖縄学の課題』木耳社/1972年)
  • 嘉手納宗徳訳注『第一巻李朝実録琉球史料(三)』(松涛書屋/1982年)

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