洗骨——日本と台湾と沖縄にある生と死の間の世界

文化

「死」を表す言葉を探して

日本語で「死ぬ」という状態を表す類語は「亡くなる」「逝去」「儚(はかな)くなる」「旅立つ」など数多いが、これについて中国語(台湾華語)の先生と雑談していたら、「台湾語(ホーロー語)では、『蘇州に卵を売りに行く』という『忌み言葉』がありますよ」と教えてくれた。どうして「蘇州」で「卵」なのかを聞いたが、先生も分からないという。それ以来、台湾語を話す年配の方と会うたびに由来を尋ねているが、これという答えはまだ聞いていない。

日本にも似たような話がある。よく知られているのは厳島神社が鎮座する広島県宮島である。「神の島」と呼ばれる宮島には「ケガレ」を忌み嫌う厳島信仰があり、島内には墓地が無い。住人が亡くなると対岸に運ばれ埋葬の際には、「死」という言葉を避け「広島へ行く」と代用した。江戸時代中期の国学者、小野高尚(おの・たかひさ)の随筆集『夏山雑談』には、

「西国辺りにて卑俗の諺(ことわざ)に死することを広島へゆくと云(いう)は 安芸国厳島は神地にて穢(けがれ)をいむ故に人死するときは其死骸を片時もおかず 息たえぬればいまだ死せさるよしにて広島の地に渡し 彼所にて喪を発し葬をし是(これ)故に死と云ふを忌て 廣島へゆくといいならわせしなり 是厳島の土俗忌言葉なり」

とあり、これが西日本各地へと伝わって「別府の温泉に入りに行く」「広島に鍋を買いに行く」「大阪にたばこを買いに行く」と変化したようだ。

死者への恐怖感が根底に

「死」を「ケガレ」とみなす意識は、台湾でも古くからあった。

台湾の民俗学者・劉枝萬によると、台湾の葬儀の機能とは、死者への「本能的嫌悪恐怖感」に基づく「関係断絶」にあるという。死んだ瞬間から腐敗を始める死体は有毒性を持ち危険な上、死者がこの世とあの世の境界にとどまり「鬼」になれば、生者に災いをもたらす。

現在、台湾には太平洋戦争で亡くなった日本人を神様として祭る廟(びょう)があるが、台湾人が死者に抱く強い嫌悪と恐怖感に注目すれば、亡くなった日本人への尊敬の結果というより、志半ばで死んだ霊が荒ぶることを恐れ、手続きを踏むことでたたりを避け、地域の共同体を守ってくれるように祈る側面がある。これは平家の怨霊や菅原道真に代表される、日本の「御霊信仰」にも相通ずる。民俗学者の柳田國男は論文『人を神に祀(まつ)る風習』(1926年)の中で、遺念確執を残して死んだ人の霊を「御霊」と呼んだ。今も日本に残る「霊社」「若宮」「新八幡」「今宮」はみな、荒ぶる「御霊」を鎮めるための社である。

死者を送る風習「洗骨」とは

『夏山雑談』の「息たえぬればいまだ死せさるよしにて」という部分には、この世からあの世に渡る間に、もう一つの世界が存在するのを思わせる。特に台湾ではこの「間の世界」にある死者をいかに次の段階に送るかが重視される。筆者も台湾人家族の葬儀を経験したが、現代では儀式がかなり簡略化されている日本に比べ、台湾のそれは筆者にとって強烈な印象を残した。文献資料を読めば、かつての儀式はもっと複雑だったことが分かり、昔の人には頭が下がる。

死者を次の段階に送る方法として、以前の台湾では「洗骨」が当たり前の風習だった(子供や事故に遭った死者は例外)。死んだ家族のひつぎを家の中に留め置き、いろんな儀式を施した後に土葬して、一定期間を過ぎ白骨化した遺体を掘り返し、きれいに洗って再び埋葬する。一時的に埋葬しただけの死者は死霊のままで、子孫のためにならないどころか病や死を持ち込む危険な存在とされ、風水師が選んだ吉日に洗骨をし、吉祥の方角にて第二の葬儀をする。そうすることで子孫に幸福と豊穣(ほうじょう)をもたらす「祖先」となる。

今も台湾には何代も続く男性の「洗骨師」がおり、台北帝国大学で医学教授だった金関丈夫の本にも記されている通り、彼らは人体について解剖学的な知識も持っている。台湾に火葬が持ち込まれたのは日本時代で、公衆衛生の観点から最初はマラリアなど伝染病による死者が火葬された。火葬場は現在の台北市中山区、林森公園(日本時代は三橋町といった)の辺りに建てられたが、台湾人にとって洗骨の儀式は儒教的「孝」を重視する漢民族社会の象徴そのものであり、抗日意識の高まりを恐れた台湾総督府も無理に火葬を強制しなかった。

台湾台北市中山区の林森公園(栖来 ひかり氏提供)

台湾の日本時代から戦後にかけて活躍した台湾人小説家の呂赫若は『風水』(台湾語:ホンスイ)という作品で、洗骨が済んでいない父親が夢枕に立ち自分を親不孝と責める一方で、自分勝手な弟が連れてきた風水師によって腐敗途中の母親のひつぎを開けてしまう――日本の領土となってもたらされた近代意識と伝統文化の間で戸惑う台湾人の葛藤を描いた。衛生面や土地不足の問題で火葬が主流となった現在でも、自然な腐敗(土葬)を経た骨は台湾語で「青骨」、火葬を経た骨は「熟骨」と呼び分けられている。

沖縄や奄美大島でも伝統だった洗骨

「洗骨」は台湾のみならず沖縄や奄美大島でも、土葬・風葬など形は違えど伝統的に行われてきた。日本の小説家・島尾ミホの文学作品にも洗骨のことが出てくるが、台湾を含む漢民族社会では洗骨師が皆男性なのに対し、沖縄地方では女性が担ったことは興味深い。親族や地域で共有する墓からひつぎを男性たちが運び出し、死者と最も血筋の近い女性がふたを開けて骨を取り出し、白骨化した骨から皮膚を包丁で剥ぎ取り、海水と泡盛で洗い清めた後に骨つぼへ入れる。自分の親や子供を洗骨することは、女性にとって残酷な仕事である。このため後に起こった女性運動により、1939年には火葬場が設置され、火葬が中心となった 。

複葬は『日本書紀』にも記録

台湾の対岸である中国南方の福建省(特に客家人地区)や東南アジア各地、遠くはブラジル、ボリビア辺りの少数民族の間にも洗骨の記録があるのは 、古来からの海洋文化の交流の中で広がったものかもしれない。台湾で育ち熊本大学や梅光学院大学で教壇に立った民俗学者の国分直一は、「日本・沖縄はもとより環シナ海では、先史時代から複葬(洗骨や移骨など、遺体に複次的な処置を施してから最終的に「祖先」として遺体を葬る) が主流であった」との見解を示している。

確かに、古代の日本人も複葬をしていた記録は存在する。『日本書紀』によると、崩御した天皇の亡きがらはすぐに地中に埋めることはなく、少なくとも1年半以上は「殯宮」(もがりのみや)に安置された。この「殯(もがり)」とは天皇が崩御した際に今も行われる儀式で、冷凍保存技術もない古代において、殯宮で一定期間を経た遺体が白骨化した状態で再び古墳に埋葬されたと考えられる。

日本の国造りの神話が描かれている『古事記』の中で、死んだ愛妻イザナミノミコトを黄泉(よみ)の国まで探しに行ったイザナギノミコトが、腐乱してうじの湧く変わり果てた妻の姿を見てしまうところにも、こうした死やケガレへの恐れが表されている。「沖縄学の父」と呼ばれる伊波普猷(いは・ふゆう)によると、沖縄のある島で見られた風葬の方法は、『日本書紀』に見られる「天稚彦(あめわかひこ)」が死んだ際に親族が毎晩のように集い、酒肴(しゅこう)を携えて歌い踊った箇所を連想させるという。

日本における複葬の名残は、山口県の土井ヶ浜遺跡をはじめ、大分、和歌山、千葉などの沿岸部にある古墳や遺跡に残っている。

黒潮や対馬海流が流れる日本と台湾の間には、多くのつながりを見いだすことができる。あらゆる文化は古来より、日本、台湾とその周辺地域に波のように寄せては返している。人の「死」の取り扱いについても例外ではない。「蘇州に卵を売りに行く」という忌み言葉も、あるいはその一つなのかもしれない。

バナー写真=厳島神社(栖来 ひかり氏撮影)

<参考資料>

  • 小野高尚『夏山雑談』/国立国会図書館デジタルコレクション
  • 島尾ミホ『海辺の生と死』
  • 『女性学辞典』/岩波書店/2002年
  • 国分直一『日本及びわが南島における葬制上の問題』(1963)
  • 国分直一『環シナ海民族文化考』(1976)
  • 大本敬久《愛媛的傳承文化》(愛媛の伝承文化)
  • 呂赫和『風水』/『南方・南洋/台湾』/黒川創・編(1996)
  • 筒井功『葬儀の民俗学』(2010)
  • 胎中千鶴『葬儀の植民地社会史/帝国に本と台湾の〈近代〉』(2008)
  • 平敷令治『沖縄の祖先祭祀』(1995)
  • 蔡文高『洗骨改葬の比較民俗学的研究』(2004)

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