台湾と沖縄をつなぐ音楽祭:「隣人」の文化交流

文化

秋になっても、強く心に残る夏の記憶。私は、台湾東部の農村を歩きながら楽しんだ「島嶼音楽季(H.O.T Islands Music Festival)」の熱気が忘れられない。Hは花蓮、Oは沖縄、Tは台東の頭文字だ。台湾東部と沖縄で毎年交互に開くようになって5回目。双方の音楽家が共演するだけの音楽祭ではない。「日本の辺境の沖縄と台湾の辺境の花蓮・台東が黒潮文化としてつながろう」を合言葉に、約1週間かけてさまざまな集落で交流し、音楽を入り口にしながら生活文化・伝統文化へと深めていく。そんな理念が現実のものとなり、味わい深い文化交流の場になりつつある。

先住民族と音楽で交流

私が現地に入ったのは、2018年7月2日。台湾鉄道の普悠瑪号で台北駅から約3時間半で台湾東部の玉里駅に着いた。車で花蓮県富里郷羅山村へ。泊まった民宿の周囲は水田で、「富麗農村」と書かれた石碑が建っている。

翌日、台湾先住民族の一つ、ブヌン(布農)民族の「古風集落」に向かう。沖縄の音楽家たちも一緒だ。小学校で子供たちが「一緒に歌いましょう」と、ブヌン語の歌を合唱して迎えてくれた。指導するのは、サビ・イスタシパル(Savi Istasipal、張小芳)。ブヌン民族の伝統音楽・文化を継承する女性歌手で、娘5人と音楽グループ「小芳家族」を結成し、教育にも携わっている。

サビの案内で、集落内を歩いた。「伝統食である粟の復活を目指しています」。実験用の畑からサビが粟の穂先をつまみ取り、説明を始めた。同じ雑穀でも健康食として注目され、高く売れるキヌアの栽培がこの地方でも増えている。粟は鳥に食べられるなど、あまりうまくいっていないようだ。シャーマン(みこ)が途絶え、豊作を祈る儀式もできなくなったという。「どうやって伝統文化を残していくか」。厳しい話をしていたサビが突然、「ウーウォウォー」と歌い出した。「祖先たちは粟をたっぷり積んで家路に就くとき、疲れを吹き飛ばすために、こうやって即興で歌って帰ったのです」。音楽も生活文化の一部と言いたかったのだろう。

夜、小学校の校庭の一角で交流会が始まった。サビと娘たちがブヌン民族の民謡を歌い、沖縄勢が続く。名護市辺野古文化交流団として参加した古波蔵昇(三線・歌)と嘉陽宗淳(太鼓)、宜野湾市普天間を拠点に世界で活躍するオキナワンラテン音楽バンド「KACHIMBA4(カチンバ・クアトロ)」、沖縄出身で現在は東京に住む仲村奈月(三線・歌)。そこに、こはもと正(宜野湾市、サックス)、坂元健吾(浦添市、ベース)が加わる。

仲村奈月(筆者撮影)

ブヌン民族の長老たちが、古謡を朗々と歌い始めた。素朴で力強い歌声に圧倒される。この日の最後は、昼間に練習した二つの歌を参加者全員で合唱。ブヌン民族の伝統歌「Paiskalaopa ku」と、沖縄のわらべ歌「赤田首里殿内(あかたすんどぅんち)」で、後者は手遊び歌で振り付けがある。子供から長老たちまで、みんなで踊って歌って夜が更けていった。

翌日は、また別の集落へ。先住民の村ではなく、客家が7割ほどを占めるという。円すい形の笠(斗笠)を作る作業を見学したり、名産の「泥火山豆腐」を実際に作ってみたり。この農村のリーダー、林益誠が豆腐の原料の大豆を栽培している畑に案内してくれた。午後は、アミ(阿美)民族の集落「吉拉米代集落」へ。迎えてくれたのは、アミ民族のシンガーソングライター、莫言。この地で文化伝承や教育に従事している。「あの滝でいつも曲を作っているんだ」と莫言が誘い、山道を歩く。滝の音に鳥の声が重なる。熱唱型の莫言の歌に力を与えているのは、こうした自然に支えられている感覚に違いない。村の中心部に戻り、「跳舞場」で開かれたコンサートは、地元アミ民族のおじさん、おばさんもノリノリ。今夜も歌って踊って長い一日が暮れた。

「斗笠」を作る実演(筆者撮影)

翌日は、台東県池上郷の大坡池音楽館で「島嶼論壇」。サビがブヌン民族の音楽教育がどう発展してきたかを語り、辺野古の郷土史家、島袋権勇が自分の住む地区の文化伝承について説明した。基地問題や政治問題でなく、文化を語り合う。このイベントならではである。

莫言(筆者撮影)

最後は共同で作った曲を録音

その後の数日間のことは駆け足で報告しよう。「やっと私の出番です」と沖縄の織物工芸家、島袋知佳子が言って始まったのが「島嶼工芸展」。島袋には地元の工芸家との交流が貴重だったようだ。コンサートも日によって趣が変わった。草地で野外演奏会をしたかと思うと、パイワン(排湾)民族の集落では、河川敷。最後は川に飛び込むなど、野性味あふれる公演となった。

7月8日、最後のコンサートが台東市鉄花村の常設ステージで開かれた。文化空間として開発された地区。大都市だけに観客も多く、コンサートらしいコンサートだった。「こうした整った場所もいいけれど、農村の野外公演も味があるなあ」。そう思ったのは私だけではあるまい。

最終日の9日、「島嶼音楽季」を主催する「国立台東生活美学館」で、参加した音楽家たちが共同で作った曲のレコーディングがあった。この1週間、生活を共にしながら練り上げただけあって、息が合っている。これまたこのイベントの大切な成果と言うべきだろう。

レコーディングの合間に、台東生活美学館の李吉崇館長に話を聞いた。

台東生活美学館の李吉崇館長(筆者撮影)

——なぜ島嶼音楽祭を始めたのですか。

沖縄も花蓮・台東も黒潮の通り道で、先史時代から密接な関係があったかもしれません。花蓮・台東は台湾の辺境ですし、沖縄も日本の辺境。遅れた地域というイメージがありますが、文化という切り口で見るとどちらもとても豊かで、音楽が文化の大事な要素を占めています。

——それで、音楽から文化交流に?

音楽が切り口ですが、本当にやりたいのはさまざまな分野での幅広い文化交流です。まず集落と集落の交流、それから音楽人と音楽人の交流。ですから、公開のプログラムは少ない。深い交流をすることによって、初めて心の交流ができる。文化の継承や環境など、直面する問題は共通しているので、お互いの経験を学び合って共に成長していくというコンセプトで始めました。

——5回やってみて、いかがでしたか。

まず、沖縄の友人たちにとても感謝しています。交流の経験は、参加者それぞれにとって忘れがたいものになっている。そういう記憶、思い出を積み重ねていくことが大事です。目に見える成果としては、音楽家たちがお互いに行き来して交流するようになりました。工芸、映画など、各方面の交流も増えた気がします。

——将来的には?

音楽を起点にして、もっといろんな分野で交流が進むことを期待しています。神経のシナプスのように、交流がたくさんあれば、1、2本途絶えても他のところがつながっていく。そんなイメージ。政府の支援がなくても、集落と集落の交流がしっかりと確立するのが理想ですね。

参加者はどう受け止めているのだろうか。カチンバのリーダー、大城太郎はこう語る。

KACHIMBA4(筆者撮影)

「初めて現地に寝泊まりし、自然の中で生活して村を回ったわけですが、実体験すると全く違うなあと思いましたね。村の中で守りたい文化があって、それが無くなる寂しさと、だからこそ残ってきたものがあって、胸にキューンと来ました」「沖縄は、この10年で急激に変わった気がします。昔は荒々しさがあったのに、自由な表現がしにくい感じになっている。僕らがキューバとかが好きなのは、他国からの経済制裁の影響を受けながらも国民が幸せに生きているからです。台湾は、一人一人が自立している気がする。沖縄は魂が失われていく感じで、自分でもちょっと諦めているところがあったのが、台湾でいろんな村を見ることができて、いい刺激を受けました」

カチンバのリーダー、大城太郎(筆者撮影)

他のメンバー3人も似た感想を持ったようだ。「沖縄も昔はもっと地元のものを食べていたけど、今はハンバーガーとかが当たり前。台湾の人は自分たちの文化を大事にしているよね」「台湾に来るたびに、沖縄と似ているなと感じる。音楽と踊りがセットで生活の一部として残っている。何が違うかというと、外からの圧力に対してどうしたかというところかもしれない。台湾の力強さを見たときに考えさせられることが多い」「ここは文化を残す意識が相当進んでいて、若い子でも自分たちの歴史を説明できる。自分たちはどこから来て、これからどうやっていけばいいのか。ヒントをもらった気がする。1週間くらい一緒に音楽をやることによって、言葉以上のものを学ぶことができた。この経験をこれからの活動に生かせたらいいな」

ブヌン民族のサビは、沖縄の音楽を「ものすごく懐かしい感じがした。小さい頃に聞いたことがあるような」と言った。アミ民族の莫言は「エキゾチックな感じがした。違いの方が面白い。いい化学反応が起きる」。対照的な感想のようだが、要するに「似ているが、違いもある」ということだろう。そうとらえると、カチンバの思いにもつながってくる。似ているという感覚は近しさを生むし、違うという発見は自らを省みる刺激につながる。だからこそ、文化交流は面白い。

カチンバは、8月に韓国であった「ACC WORLD MUSIC FESTIVAL」に参加するなど海外公演が多く、「隣人」の台湾との交流も続く。小芳家族は、秋に沖縄に呼ばれているという。

来年の「島嶼音楽季」は舞台を沖縄に移す。どんな6回目になるか。今から楽しみだ。

野外コンサート後、みんなで記念撮影(筆者撮影)

バナー写真=小芳家族、サビ(左から3人目)と娘5人(筆者撮影)

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