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佐賀のナゴヤ城:天下人秀吉の夢の跡

漆嶋 稔【Profile】

[2018.10.03]

中学時代の教科書以来、頭から離れぬ名前となった「佐賀の名護屋(ナゴヤ)城」。ある休日、現地に赴き、天下人豊臣秀吉の夢とその晩年に思いをはせた。

中学時代、日本史の教科書に「佐賀のナゴヤ城」とあるのを見て不思議に思ったが、よく見ると「名古屋城」ではなく「名護屋城」であった。爾来(じらい)、頭から離れぬ固有名詞になった。

意外な穴場

交通アクセス

  • 佐賀方面から車で約1時間20分。
  • JR唐津線「西唐津駅」から「呼子」方面のバス(約30分)。「呼子」バス停で下車後タクシー5分程度。

4月のある休日に行ってみた。JR唐津線終着駅(西唐津駅)で下車し、「西唐津駅前」バス停から呼子(よぶこ)方面のバスに乗車した。30分足らずで「呼子」に到着したが、近づくほどに大混雑状態となった。さすがは名護屋城、ものすごい人出だと感心していたら、ほとんどの人は「呼子のイカ」を目指しており、そこから名護屋城に向かったのはわずか4人であった。城内を2時間かけて巡ってみても、観光客は20人いたかどうか。だが、想像力が刺激される光景を随所に感じ取ることができた。例えば、名護屋城の壮大さと8カ月という短い工期から推察される殺気立った築城工事、壱岐や対馬に向かう大船団の姿、城の周囲に集められた160もの諸大名(特に最前線の島津義弘)の期待と不安、数カ月で20万人を超す大都市となった現地の大活況。また、天下人秀吉の心の中を推し量ってみるのも一興であろう。すなわち、名護屋城跡は400年以上前に容易にタイムスリップできる絶好の穴場なのである。

ちなみに、名護屋城の一角には「海月(かいげつ)」という茶苑がある。すでに盛夏のような暑さであったのに、この茶苑は空調を使用していなかった。その代わりに、開け放たれた縁側に座れば、庭園から涼風が心地良く吹き込み、いつの間にか汗も引いていた。兼好法師が徒然草で「家の作りようは、夏をむねとすべし」と喝破したことを思い起こしたほどだ。

この地に城を築いた理由

豊臣秀吉は天下統一後、次の目標として大陸進攻を考え、その前線基地として名護屋の地を選んだ。最大の理由は、最初の上陸地となる釜山に最も近いからである。しかも、目視できる壱岐と対馬という島を経由できるので、海上で迷子にもならず、漂流する恐れもない。事前準備として、壱岐には勝本城、対馬には清水山城と撃方山城(うつかたやまじょう)が築城された。このような合理的理由以外に、名護屋が秀吉の地元「那古野(なごや)」と同じ地名であり、名護屋城を築城する山が縁起の良い「勝男山」という名称だったという偶然の要素も加わった。天下人は験(げん)担ぎをするものである。

秀吉の心の揺れ

ここで、名護屋城築城の目的であった「唐入り(からいり)」前後の秀吉の心の動きを推察してみると、天下人秀吉が絶頂期を迎えた後、いつの間にか奈落の底に滑り落ちて行く心象風景が見えてくる。

1585年、秀吉の海外進出構想が直臣の書状で確認された。少なくとも構想7年の長期計画であった。1589年、国内を統一し、待望の嫡男豊臣鶴松も誕生した。有頂天となったはずである。だが、事態は徐々に暗転する。

1590年、実妹朝日姫(徳川家康の正室)の病死に続き、1591年に入ると右腕の実弟豊臣秀長も病死。その半年後には嫡男鶴松も病死した。秀吉は髻(もとどり)を切って喪に服するほど落胆したという。鶴松病死の直後、諸大名に名護屋城普請を命じているが、具体的な話は臣下が粛々と実行したと思われる。一方、秀吉は虚(うつ)ろな日々を過ごしていたであろう。例えば、普請命令の数カ月後には関白職を秀次に譲り、自分は唐入りに専念するとのことであったが、以下の通り、それは言葉だけのようであった。

1592年、諸大名に朝鮮出陣を命じながら、当の本人は出陣日から13日も遅れて到着した。晴れがましい出陣日に姿を見せなかったのは、秀吉がまだ鬱屈(うっくつ)していたためと思われる。さらに同年8月、愛する生母大政所(おおまんどころ)の病死を知らされると、その場で卒倒したという。秀吉は奈落の底に落ちた。

この年、秀吉は56歳。近親者が相次ぎ死去したことで、自らの死も如実に意識したはずだ。また、1592年7月の明軍の参戦以降は戦況も振るわず、秀吉の苦悩は深まるばかりであった。「唐入り」に対する意気込みはトーンダウンしたように見える。例えば、秀吉の能に対する入れ込みようである。大政所供養のため上洛してから3カ月後、再び名護屋に戻ったが、翌1593年から能に没頭し始めた。

本来は派手好みで陽気な秀吉であるから、動きがいかにも少なく、簡素な舞台で舞う幽玄な能に心惹かれるとは思えない。だが、名護屋城本丸に能舞台を設け、正室の北政所(きたのまんどころ)に能を十番覚えたと書状で知らせている。おそらく、能には鎮魂や供養をテーマとする演目が多いので、直前まで近親者に不孝が続いた秀吉は能に傾倒するようになったのではないか。ちなみに、その後、自らを称える「太閤能」を作らせて自演するようになったが、これは本来の能とは別のもの思われる。すなわち、自らの業績を誇示する演目は従来の能にはなく、しかもその表現は幽玄さとは遠くなるはずである。太閤能はいかにも秀吉らしい異端の能であったと思われる。

名護屋城の城壁跡と生い茂った木々 =著者提供

命運、縮めた城

ところが、1593年8月、秀吉の後継者となる秀頼が誕生し、一転して秀吉に戦う気力が蘇った。加えて、秀吉は戦争に勝利したと思い込んだ。実は、日明双方の担当者が講和を急ぐあまり、秀吉には明国降伏、明国には日本降伏という虚偽報告を上げたからだ。ところで、1595年8月、秀吉は甥の秀次一族を粛清する事件を起こした。実子秀頼のために甥の秀次を排除したのだという。何の因果か、翌1596年9月、慶長伏見地震では伏見城が崩壊し、秀吉は危うく死ぬところであった。秀次事件からほぼ一年後の大地震なので、秀吉は秀次のことをありありと思い出したに違いない。そして、同年11月、明国使節の来日で講和内容の虚偽が発覚。秀吉は激怒し、慶長の役を起こす。だが、秀吉は意欲がすでに失せていたのか、1598年4月には盛大な「醍醐(だいご)の花見」に興じている。一説には、醍醐寺の座主である義演(ぎえん)は秀吉の死期が間近であると感じ、最後の花見を楽しんでもらうように手配したという。それほどに秀吉は弱っていたのであろう。実際、同年6月に病に伏せてからは回復することなく、同年9月にその生涯を閉じている。

思えば、秀吉は野望実現のために縁起の良い地に築城したはずであった。だが、残念ながら名護屋城の方は天下人を好まず、その命運を縮める方向に作用したようだ。

バナー写真:名護屋城山里丸跡で発見された豊臣秀吉の「茶屋」跡(佐賀県鎮西町、2000年01月19日)=時事通信

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  • [2018.10.03]

翻訳者。1956年宮崎県生まれ。神戸大学卒業。三井銀行(現三井住友銀行)上海支店を経て独立。訳書に『決定の本質I、II』『孫子 戦争の技術』『馬雲のアリババと中国の知恵』(以上、日経BP社)、『FRB議長』(日本経済新聞出版社)、『経験学習によるリーダーシップ開発』(日本能率協会マネジメントセンター)など。

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