被爆米兵調査の森さんが手に入れた「心の鍵」

社会

歴史研究家の森重昭さんは、40年以上の歳月をかけて、1945年の広島への原爆投下で死亡した米兵捕虜12人の遺族を探し当てた。今年初めて米国を訪れた森さんは、遺族と対面し、かつての敵国で、今は同盟国となった米国の人々とともに平和の祈りを捧げた。

セント・ジョセフ墓地にて

涼やかな空の下、厳かに迎えた5月28日の米戦没者追悼記念日。広島市在住の森重昭さんは、マサチューセッツ州ローウェル出身のノーマン・ブリセット米海軍飛行士三等兵曹が眠る墓の前に立った。ブリセット三等兵曹は、世界で初めて戦争で使われた原子爆弾で死亡した12人の米兵捕虜の1人だ。

被爆米兵の大半は即死だった。しかし、ブリセット三等兵曹とラルフ・ニール軍曹は強い放射線を浴びながらも数日間生きていた。森さんは、2人のうちのどちらが言ったのかは定かではないが、臨終の言葉が記録されていると語った。

「『胸が痛い』。それが最後の言葉でした」

あまりにも短く、詩的な響きを帯びた言葉。それは、原爆に関する両政府の歪(わい)曲された発表を精査し、事実の発掘に半生を捧げてきた被爆生存者の森さん自身が感じた痛みであったのかもしれない。森さんは、まだこの研究活動を終わらせるつもりはない。現在は、広島への原爆投下の3日後、8月9日に長崎の原爆でオーストラリア人とオランダ人の捕虜も同じように死亡したと考え、調査を続けている。

ノーマン・R・ブリセットの墓にバラの花を捧げる森さん;ノーマン・R・ブリセットの墓

森さん、妻の佳代子さん、そしてブリセット三等兵曹とニール軍曹の遺族や友人たちが墓にバラの花を供えた。セント・ジョセフ墓地には、それぞれの痛みを胸に抱えながら、母国のために戦って亡くなった父親、息子、兄弟姉妹の墓を訪れている人たちがいた。朝早くローウェルのセントラルヴィル退役軍人公園で執り行われた追悼式でも同じだった。米国人にとって戦没者追悼記念日は単なる休みの日ではない。

今年、ローウェルの追悼式は、森さんの出席によって、高揚感と温かな気持ちに包まれた。参列者は、日米が戦後長い時間をかけて和解し、森さんがたった一人で始めた活動がここまで大きく人を動かしたことを実感した。

あなたは本当の紳士だ

森さんの研究活動は、2年前、前米国大統領バラク・オバマ氏が、現職大統領として初めて広島を訪れ、森さんと抱擁したことによって日本では広く知られるようになった。しかし米国ではごく限られた人にしか知られていない。彼らが森さんを知るきっかけとなったのが、ドキュメンタリー映画『灯籠流し(Paper Lanterns)』だ。映画では、森さん自身も8歳の時に原爆を体験したことや、誰も知らなかった被爆米兵捕虜の存在に光を当て、人生の大半をその研究に捧げてきたことが描かれている。これまでは限られた場所でしか上映されていなかったが、今回、森さんの訪米に合わせてサンフランシスコ、ボストン、ニューヨーク国連本部で上映会が開催された。上映会で森さんがスピーチを行ったことで、これまでよりも多くの人に森さんの活動と歴史の真実が伝わった。

映画『灯籠流し(Paper Lanterns)』予告編

ローウェルで今年行われた追悼式の司会を務めた朝鮮戦争の退役軍人、ジョー・デュソールト氏は、米国でかつて放送されていたテレビ番組『This Is Your Life』の名文句になぞらえて、「森さん、これがあなたの人生です」の言葉とともに81歳の森さんの人生を紹介した。

原爆の恐ろしさや米兵捕虜の死に関する物語は、米国人の心に鮮明に刻まれた。

森さんのスピーチは簡潔だった。橋の上から吹き飛ばされたこと、彼の妻も被爆したことを説明し、最後にこう述べた。「私がアメリカに来たのは、彼らが最後の日をどのように迎えたのかをご遺族の方々にお伝えするためです。彼らは自国のために自らの命を犠牲にした真の愛国者です。その真実をアメリカの皆さんに知っていただきたくてここに来ました」。参列者は立ち上がり、森さんに拍手を送った。

森さんの活動は、取り組みに感動した米兵捕虜の遺族や友人、政府職員によって詳細に記録されている。

ローウェル市選出のニキ・ソンガス連邦下院議員の働き掛けによって米連邦議会の公式刊行物である連邦議会議事録にも記録された。また、森さんがこの活動を始めた契機も記されている。通っていた小学校での原爆死者数が800人だったという公式発表に疑念を抱いたことがきかっけだったという。森さんが精査した結果、実際は2300人に上る事実が判明した。森さんはその調査の過程で、広島市内で10万人を超えた死者の中に12人の米兵捕虜が含まれていたことを知った。

その後の40年間、森さんは米兵捕虜の身元を特定し、死亡時の状況を調査し、時には月額数万円もの国際電話料金を支払いながら、各兵士の遺族を探し当てた。彼らの氏名を広島の原爆死没者名簿に申請し、最終的に登録が認められた。さらに仕事を掛け持ちして費用を捻出し、捕虜たちが勾留されていた建物の跡地に、米兵捕虜のための記念碑を設置した。

森佳代子さん(左から2番目)、森重昭さん(中央)、ノーマン・ブリセット三等兵曹のめい、スーザン・アーチンスキーさん(森さんの右)、および米兵捕虜の遺族と友人たち。ブリセット三等兵曹の記念碑献納式にて。

リタ・メルシエ市議会議員は次のように述べた。「皆さまを代表して森さんに感謝を申し上げます。誰に頼まれた訳でもないのに、深い思いやりの心で成し遂げてくださいました。私たち全員があなたを愛しています」

同市選出のマサチューセッツ州議会議員、トーマス・A・ゴールデン・ジュニア氏は、森さんの活動を日米関係の絆の強さに結び付けて語った。「アメリカと日本が力を合わせれば世界により良い影響を及ぼせることを、森さんは身をもって示してくれました。1人の人間の行為が大きな変化をもたらすことができるのです。森さん、亡くなったわが国の兵士たちのことを思ってくださってありがとうございました。私が人に贈る最大の賛辞は『紳士』と呼ぶことです。森さん、あなたは本当の紳士です」

森さんは満面の笑みを浮かべて立ち上がり、お辞儀をした後、拍手をする人々に向かって手を振った。

トーマス・A・ゴールデン・ジュニア州議会議員のスピーチの後、手を振る森さん。

大きなうねり

ローウェル市のウィリアム・J・サマラス市長は「あなたの活動によって、多くの遺族が家族を失った経緯を知ることができ、気持ちに区切りをつけることができました。これはとても大切なことです。ありがとうございました」と感謝の意を表した。そして森さんに「ローウェル市の鍵」を贈呈し、「これはローウェル市の扉を開ける鍵です。あなたはその素晴らしい活動を通して私たちの心の扉を開ける鍵も手に入れられました。深く感謝いたします。あなたにお会いできて光栄です」と述べた。森さんは鍵を受け取り、みんなに見えるようにその鍵を高々と掲げた。

この日は、森さんと米兵捕虜の遺族や友人、そして特にバリー・フレシェット監督の長年の思いがかなった一日だった。フレシェット監督は、ノーマン・ブリセット氏の親友だった大叔父から森さんの活動のことを聞き、そのストーリーに引き込まれ、ブリセット氏について詳しく調べ始めた。2013年には米軍の新聞『星条旗新聞』の1998年8月1日付の記事をインターネットで見つけ、森さんが広島に米兵捕虜の記念碑を設置したことを知った。

森さんとバリー・フレシェット監督。ブリセット氏の墓地にて。

まずフレシェット監督は森さんに手紙を書き、2014年に広島を訪れた。そして、ブリセット氏だけでなく、原爆で死亡した12人全員の米兵捕虜について森さんが「誰よりもよく知っている」ことに驚いた。そこで森さんに関する映画を制作することを決め、クラウドファンディングで制作資金を集めることにした。募集金額は2万ドルとかなり高額だったが、ボストン日本協会特別顧問のピーター・グリーリ氏の目にこの企画が止まった。グリーリ氏は同映画のプロデューサーを引き受け、フレシェット監督に資金提供者を引き合わせた。さらに、オバマ大統領の広島訪問の直前に、米政府職員に森さんの活動と映画について伝えた。

「徐々に大きなうねりとなっていったのです」とフレシェット監督は振り返る。15年には米兵捕虜の遺族数人を連れて再び訪日し、森さんと遺族との初の対面を実現させた。その後も数回にわたって日本を訪れた。旅費は主に支援金で賄っていたが、彼自身が負担し、家中のお金を使い果たした時もあった。「いわゆる『中年の危機』ですよ」とフレシェット監督は笑う。「妻と私はこのプロジェクトを何よりも大切に思っていましたし、変化をもたらすことができると信じていました。ジープを買うよりもはるかに価値がありますよ」

現在、森さんと同映画を支援している人々の数は数十人に上る。追悼式の後、みんなが集まり、フレシェット監督の自宅でバーベキューパーティが開かれた。「森さんの訪米を支えるために多くの人が尽力してくれました。全員に感謝の気持ちを伝えたいのです」とフレシェット監督は語った。

森夫妻を囲んで、米兵捕虜の遺族と友人、フレシェット家の人々、『灯籠流し(Paper Lanterns)』の制作・宣伝に関わった人たちが一堂に集った。

原文英語。

バナー写真:「ローウェル市の鍵」を掲げる森さん。ローウェル市長は森さんが「私たちの心の鍵」も手に入れたと述べた。

写真撮影:チャールズ・A・レイディン

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