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ミャンマーのモノづくりを育てる:地元に根差して事業を続けるビジネスマン

経済・ビジネス

20年前にミャンマーに単身移り住み、家業の帽子製造、そして独立してバッグ製造の事業を続ける日本人ビジネスマンがいる。現在は日本向けに製造するスリッパ工場の生産管理部長も引き受け、モノづくりのノウハウ伝承に奮闘している。

生産現場で伝える「コツ」と技術

ミャンマーの中心都市ヤンゴンから車で北へ約1時間。日本のスリッパメーカーが投資してできた工場を訪れた。きれいに整頓されたフロアにミシンやプレス機などが並び、地元の若者200人が働く。ここで作られるのは、日本のホームセンターや量販店などで300円から600円ほどで売られるスリッパやルームシューズ。月に10万足を生産し、全量を日本に輸出する。

ヤンゴン郊外にあるスリッパ工場。生産した全量が日本に送られる。

工員の給料は、月11万チャットほど。日本円に換算すると1万円にも満たない。この安い賃金を背景に、ミャンマーでは縫製業を中心にした委託加工業が成長している。ここの工場も3年前の2015年、日本のメーカーが中国にある工場を一部たたんで、製造機械を中国からミャンマーに持ち込んで開設した。

米田博行さん(69)は、この工場で生産管理を担当する唯一の日本人スタッフだ。自分の子どもよりも若い従業員に気さくに声を掛け、時には自分でミシンを動かしてみせる。「私は職人ではないけれど、この業界では長いキャリアがある。技術の細かい『コツ』は、実際に見せてあげないと従業員に伝わらない。逆に言えば、たとえ言葉が通じなくても、工場で時間を過ごせば自分の思っていること、伝えたい技術は相手に伝わると思っています」

米田博行さん

現在の目標は、月10万足の生産能力を15万足まで上げることだ。「従業員がやりがいを感じて職場に定着し、技術が向上すれば、やはりうれしいものです。生産量が上がれば、彼らの収入も増えますから」

「社長になりたい」と再びミャンマーへ

米田さんとミャンマーの縁は1997年、縫製の技術指導でヤンゴンに赴任した時に始まる。実家は東京・浅草橋の帽子製造・卸メーカーを営んでいた。富山に3つの工場を持っていたが、日本の繊維・アパレル産業は当時、こぞって生産拠点を中国に移し始めていた。

「うちはタイかミャンマーでということになり、兄がミャンマー進出を決めた。私は当時『行くのは嫌だ』と言ったのだが、3年だけという約束で工場を立ち上げた」。女性向けの布の帽子に生産品目を絞り、材料の切断などは全て日本で済ませたものを持ち込んで縫製する。それを日本に戻し、プレス、仕上げを経て出荷する工程だった。帽子は布を立体的に縫わなければならないのでかなりの技術が必要だが、「3年でなんとかきちんとしたものができるようになった」という。

だが帰国後ほどなくして、米田さんはミャンマーに戻る決意を固める。2000年、51歳の時のことだ。「実家の事業継承問題の中で、一度自分が社長になって事業をしてみたいと考えるようになった。二男の自分は、このままでは会社経営はできないのでね」。資産を整理し、日本に賃貸用のアパートを建てて家族の収入を確保した。ミャンマーでの起業を決めたのは、経済的な理由からだ。「日本でモノづくりの事業を始めるとなると、億単位のカネがいる。私がミャンマーに持ってきた事業資金は700万円ほどです」。

ミャンマーの人たちは帽子をかぶる習慣がないので、実家でも一部手掛けていた女性用バッグ製造を始めた。工場は、ヤンゴンにある2階建ての住宅の1階。ミシンを買い、従業員の女性を雇って作り方を教えながら、一から販路開拓も行う。「あれほどなってみたかった社長業は、実際にやってみるとやはり大変な仕事だった」。それでも3年目に黒字化し、紆余曲折を経ながらも安定した経営を続けている。

米田さんのバッグ製造工場

米田さんの「本業」であるこの工場では、現在20人の女性が働き、月1000個のバッグを生産する。販路は全てミャンマー国内で、1万チャットほどの価格で専門店などの店頭に並ぶ。

完成品のバッグを持つスタッフ。米田さんは「20人の従業員は家族と同じ。私も彼女らに支えられている」と話す。

お金には替えられない「仕事」

スリッパ工場での仕事は、ヤンゴン市内でたまたま知り合った日本人のオーナーに話を持ち掛られて始まった。工場は当時、立ち上げ時の技術指導に当たっていた中国人スタッフが帰国した後、なかなか期待された成果を上げられない状態だった。

「自分に立て直しができるだろうか、やってみたいな、と思って引き受けた」、と米田さんは振り返る。オーナーには「日本の大卒初任給は今どのくらい?私の報酬はそのレベルでいい」と伝えた。

工場で取り組んだのは、従業員に「自分の頭で考えさせること」。例えば、現場が「これでいいですか、それとも悪いですか」と聞いてきたとき、「あなたはどう思うの?」と問い返す。「本当にいいと思っているなら私に聞きに来ることはないわけで、ダメだと思っているならどこがダメなのか、解決するにはどうしたらいいかを考えてもらった」

また、現場をこまめに見て回り、従業員と対話を繰り返した。ミシンの使い方の技術などは、手取り足取りの指導もした。従業員一人ひとりに「自分で工夫した仕事」を促すことで、職場の雰囲気が良くなり、パフォーマンスも上がっていた。

スリッパ工場での米田さん

米田さんは「1年という約束が、もう2年半になった。次第にだけれども、この職場も自分の持つ工場と同じように愛着がわいてきた」と話す。ミャンマーに根を下ろして20年。「若い人たちが成長し、職場でのうれしそうな顔を間近で見ると、お金では買えないものがあるのだなと感じます。こんな気持ちは、若い頃は分からなかったけどね」

取材・文・写真=石井 雅仁(ニッポンドットコム編集部)

バナー写真:ヤンゴン郊外のスリッパ工場で、従業員の作業を見守る米田博行さん=2018年7月

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