日中の懸け橋

波乱の人生・日本で俳優の夢つかんだ中華の料理長—解世雄さん

社会 文化

「どこの国の人に生まれてくるか自分では選べません」―。日本が第二次世界大戦で降伏した2年後の1947年、中国の北京で一人の男の子が誕生した。解世雄(ジエ・シーション)さん。父は日本人の医師で、母は中国人。父はその後、日本に送還され、解さんは母と共に中国に残って生活を続けた。父子が再会できたのは37年後のこと。父の勧めもあって一家で日本に移り住んだが、当初は日本語がまったくできず、苦労の連続。しかし、解さんはへこたれることなく努力を続け、中華料理の店を持ち、俳優の夢もつかみとった。

解 世雄 JIE Shixiong

1947年中国北京市生まれ。父は日本人の軍医で、敗戦後、北京で収監。54年に日本に送還されたが、中国人の母と共に北京に残り、小学校を卒業。サービス専門学校などを経て、北京豊台区飲食服務公司でコックとして入社。レストランの総経理も経験。84年、一家で日本に移り住み、苦労の末、88年に自分の中華料理店をオープン。料理長を務める傍らCMやテレビドラマなどに多数出演している。90年に日本籍を取得。日本名は吉沢世雄。

中国人の大女優コン・リーやSMAPのキムタクらと共演

解さんが俳優になったのは本当に偶然だった。ある日、友人が「中華麺のCMに出演する中国人コックを探している。オーディションを受けてみないか」と言ってきたのがきっかけだった。主役は美人で有名な中国の大女優、コン・リー(鞏俐)さん。軽い気持ちで横浜のオーディション会場に出掛けていった。

98年のことで、オーディション会場は有名な中華料理店。解さんが行くと、会場は多くの中国人コックでごった返していた。解さんは俳優経験ゼロ。「とても受かるとは思いませんでした」と振り返る。

が、結果は何と合格。解さんはハウス食品の「とろみ好麺」のCMに中国人のコックとして出演した。コン・リーさんの目の前にラーメンを次々に出していくという役で、コン・リーさんはその度に首を振り続け、最後に「我要的是(ウォヤオダシ・わたしが欲しいのは)とろみ好麺」と一言発するというものだった。

TVのバラエティ・情報番組で航空機の乗客を演じる解さん

「(自分の)どこがよかったのかわかりませんが、その後、次々にCMやテレビドラマの出演話が入るようになった」そうで、解さんはその後、SMAPの木村拓哉さんがメインの森永製菓のCM「ウイダーinゼリー」で料理長役を務めた。また、ミニストップのCM「かりかりまん海鮮中華」や映画「ごくせん」、テレビドラマ「男装の麗人〜川島芳子の生涯〜」などにも出演。最近は、フジテレビの人気ドラマ「医龍3」第5話「心臓移植を待つ子供…天才医師でも救えない患者、打ち砕かれた希望」で中国の元大臣・李強忠を演じた。

北京で父と別れ、37年後に日本で再会

店内でのインタビュー

繰り返しになるが、解さんは俳優専業ではなく、東京・江戸川区の地下鉄東西線葛西駅近くにある中華料理店「中国菜館 吉祥苑」のオーナー経営者で、俳優の仕事がないときは店で料理長を務めている。今回、インタビューに応じてくれたのもこの店で、話は出生から始まったわけだが、解さんの人生はまさに波乱万丈、ドラマのようなものだった。

解さんの父、吉沢國雄さんは東京大学医学部を卒業し、佐久市立国保浅間総合病院の初代院長を務めた有名な医師で、糖尿病インシュリンの自己注射の実現を含め、地域医療に貢献。78年に厚生大臣表彰(国民健康保険事業功労)を受け、87年に勲四等瑞宝章(保健衛生功労)を授与されている。が、國雄さんは戦前、大学を卒業し、軍医として中国に出征。北京で解さんの母親と出会い、47年に解さんが誕生した。日本の敗戦から2年後のことで、中国では共産党軍と国民党軍の内戦が続き、混乱の中、國雄さんは北京で中国人相手の医者をしながら一家を支えていたという。妻や子を残して一人帰国するわけにはいかなかったからだ。

しかし、國雄さんは解さんが3歳のとき、中国共産党政府によって収監。54年、強制的に日本に送り返されてしまう。解さん7歳のときで、母親はその後、再婚。解さんは小学校を卒業すると、サービス専門学校などを経て、13歳で北京豊台区飲食服務公司に入り、コックとして働き始めたという。

文革中には日本人であることを理由にいじめ

「文化大革命中は日本人の子供だということでよくいじめられました。面倒な仕事がすべて回ってくる」

それでも解さんは黙々と仕事をこなし、コックとして腕を上げ、豊台区の調理師コンテストで2位。北京市の大会にも出場し、83年1月には「先進工作者」として表彰されるまでになった。赤字に苦しむレストランの経営を任されて黒字化し、総経理(社長)にもなった。この間、中国人の王新さんと結婚。一男一女をもうけ、生活もようやく安定した。が、そんなとき、突然、日本の父、國雄さんから手紙が舞い込んできた。國雄さんの学生時代の友人が北京で暮らす解さんを探し出し、國雄さんに知らせたからだ。

國雄さんは帰国後、折に触れ、解さんたちを探したが、見つけ出すことができなかった。

中国の大女優、コン・リー(鞏俐)さんと

中国に残した息子、解さんの生存を知った國雄さんは大喜び。東京・世田谷区に家を用意し、解さん一家の帰国を促したのである。そして、解さんたちは84年、北京を離れ、一家で東京に移り住んだ。しかし、一家は当時、だれもまったく日本語ができず、解さんは仕事がみつからない。人の紹介で食品会社に入ったが、給料は15万円以下。しかし、解さんはこのときもへこたれなかった。真面目に勤め、その後、調理の技術をいかせるレストランで職を見付け、88年、東京三鷹市で自分の店をもつことができた。

葛西の店は三鷹の店を移したもので、現在は娘さん夫婦が実質的に経営し、解さんは料理長に専念。CMやテレビドラマの出演依頼があると、「すぐに飛んでいく」そうだ。解さんは俳優業が心からすきなようで、作品をみると分かるが、確かにさまになっている。「好きこそ物の上手なれ」。解さんの俳優としての才能を認めないわけにはいかない。

孫は大相撲の力士と女子柔道の有望選手

解さんは現在、王夫人、娘夫婦、そして3人のお孫さんと暮らしているが、一人は大相撲の力士。春日野部屋所属で、四股名は「栃佐藤」。現在は序二段で、着実に力をつけてきている。また、もう一人の孫は柔道の女子選手で、関東大会で第2位になり、将来のオリンピック選手候補でもある。

中国でも、日本でも、苦労の連続だった解さんにとって、今が一番、心休まるときのよう。だからこそ、俳優の仕事があると、仕事を娘夫婦にまかせて飛んでいく。解さんの今の望みは「(波乱万丈だった)自分の人生を本にする」ことだそうだ。

「反日運動が起きて、日本料理店が襲われたりしますが、とんでもないことだと思います。どこの国の人に生まれてくるか、自分では選べない。わたしは自分の人生を本にして、そこのところを伝えたい。日本人も、中国人も皆、いっしょなのです。ただ、どこで暮らしているかだけなのです。仲良くしていかなければなりません」

解さんにとって中国も、そして日本も、大切な祖国なのである。

TVドラマに出演中、解さんはコック役

写真提供: 解 世雄さん

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