日中の懸け橋

上海で草の根の「日中若者交流」を推進する留学生・倉岡駿さん

社会 文化

日中関係は依然厳しい。だからこそやらなければならないのが“草の根”交流だ。上海にそんな日中の若者交流を推進している留学生がいる。上海交通大学の大学院で学ぶ倉岡駿さんである。父親は日本に帰化した中国人研究者。「顔の見える交流でお互いを知り、メディアで見る相手のイメージの齟齬(そご)を取り除いていく一助となりたい」と語る。

倉岡 駿 KURAOKA Shun

1990年宮城県仙台市生まれ。中央大学経済学部卒業後の2012年9月、中国の上海交通大学に留学。現在は大学院の2年生。将来の日中関係のあり方について討論会や勉強会を通じて考えようと、日中の若者が主導して3年前に東京で発足した「日中の未来を考える会」の上海支部代表を務める。

若者主導の「日中の未来を考える会」

北京でのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議開催を機に、安倍晋三首相と習近平国家主席による日中首脳会談が今年11月にようやく実現したものの、日中間の政治関係は依然として厳しい状況が続いている。こうした状況の下で、“草の根”レベルでの交流によって、日中関係を支えている団体がある。

そのひとつが「日中の未来を考える会(中国名:中日未来創想会)」だ。東京に本部を置き、関西と上海の支部を合わせると、10代後半から30代前半の学生や社会人、約500人が所属している。日本人と中国人がお互いに協力し合って「勉強会」や「交流会」を開催し、日中間のさまざまな課題について討論したり、両国のミュージシャンを招聘してライブイベントを実施したりしている。日中の相互理解促進のためだ。

大会の集合写真(「日中の未来を考える会」提供)

フェイスブックが縁で上海代表に就任

倉岡さんはこの上海支部の代表。大学院での勉学の傍ら、支部の運営をまかされ、勉強会やイベントなどを成功させるため、毎日のように上海の日本人や中国人社会を飛び回っている。

「日中の未来を考える会」は、2011年に起きた東日本大震災をきっかけに発足した。震災後も海を越えてやってくる中国人留学生たちに、日本文化をより深く知ってもらい、日中友好に対して熱意ある日本の人々との交流の場を、広く提供することが目的だった。その中心となったのが同会東京本部代表の安西直紀氏だった。

倉岡さんは2012年9月に中国留学のため上海にやってきたのだが、その直後、尖閣諸島(中国名・釣魚島)の国有化に端を発した反日デモが中国各地で起き、上海でも大規模デモが発生した。倉岡さんは、その様子をカメラで撮影、フェイスブックで発信した。これを安西さんが注目し、倉岡さんに上海での日中友好に関する討論会の開催を依頼してきたのだ。倉岡さんは同会の趣旨に賛同し、日中両国の友人らと共に、約1年間の準備期間を経て2013年9月に、上海で「日中友好の維持と発展」をテーマとする討論会の開催にこぎつけた。

メディアが歪める日中双方のイメージ

「それまで他にも日中の交流会や勉強会はあったのですが、日中の人たちが立場や年齢を越えて、真剣に日中関係について討論する場はありませんでした」

会合の段取りを真剣な面持ちで説明する倉岡さん

大会の噂は上海を中心に広まり、次の大会の参加者は100人を超えた。しかも参加者の70%は中国人だったという。これについて倉岡さんは、「日本はどのような国なのか、日本人とどのように付き合っていけばよいのかを模索したいと考える中国人が多いからだ」と分析する。そして、「日本人の方が中国や中国人を知ろうとせずに、中国は嫌いだと即断してしまう人が多いと感じている」と語る。

倉岡さんはこれについて「メディア報道の影響がある」と指摘。「政治的な色合いの強い中国のメディア報道、一方の日本のメディアは中国脅威論や中国のマイナスイメージを煽る傾向がある。このことは否めないのではないか」と語る。

「だからこそ、メディアというフィルターを通してではなく、直接触れ合って意見を交わす機会が必要なのです」

中国語を意識的に避けていた時代も

倉岡さんは子供のころ、内気でおとなしく、「大学生までは全くやる気のない人間だった」という。高校では、ほとんど勉強せず、大学は「推薦」で入り、大学生時代はアルバイトや友人との遊びに明け暮れた。

倉岡さんの父は研究者で、80年代後半に広西チワン族自治区から日本にやってきた国費留学生だった。東北大学で博士号を取得し、首都圏にある研究機関に勤めたエリートだった。日本人女性と結婚し、倉岡さんが生まれ、帰化もした。

「幼少期からずっと特別な意欲もなく歩み、他の友人からはみ出ることを意識的に避けていたのだと思います。自分自身も敢えて中国語を避けてきたところがあります。周囲と同じであることを重んじる日本の環境の中に溶け込みたかった」

倉岡さんは自らの過去をこう振り返る。しかし、20歳の夏、大きな転機が訪れる。大学2年の夏、ゼミの担当教授の計らいで、温室効果ガス排出権に関わる人材を育成する林野庁の研修に参加した。参加者の中で倉岡さんは最年少だった。

「いろいろな分野の人が自らの知識を持ち寄って、地球の行く末について討論する、こんな場があるんだなと思いました」

これを境に倉岡さんは社会と積極的にかかわるようになり、「学生の世界からのぞき見る社会ではなく、社会人から実社会について直接話を聞こう」と、東大、上智大、青山学院大など5校の有志と「交流会」を立ち上げた。顔を見て直接触れ合うことの重要さを痛感した。

日中の将来をつなぐ「30年早い日中サミット」

「日中間には、政治面で確かに多くの課題があると思います。僕たちのやっていることは、大きな影響を与えることは出来ないでしょう。でも、顔の見える交流でお互いを知り、メディアで見る相手のイメージの齟齬を取り除いていく一助となりたい」

倉岡さんたちは、今後は上海以外の地域でも日中間のさまざまなテーマを取り上げた討論会や意見交換会を開催していく計画だ。

コンテンツ事業の専門家を招いて

「互いの国に行ったことがある、友達がいる、相手の文化に興味があるなど、何かひとつでも“体験”があれば、イメージの齟齬や偏見に惑わされることを食い止められると信じています。その意味において、自分たちがやっているのは“30年早い日中サミット”だと思っています」

より良い未来を創りたいという思いを胸に、倉岡さんたちは、これからも活動して行く。

運営スタッフは日本人中国人合わせて20人

執筆、写真提供:永島 雅子

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