戦争を考える

草の根の追悼を重ねて—英連邦横浜戦没者墓地の夏

社会

日本で命を落とした戦争捕虜。祖国から遠く離れたこの地で眠る彼らを、20年以上にわたって毎年追悼している人たちがいる。向き合うのは、かつての敵国の兵士。何が彼らをそうさせるのか。今何を思うのか。

盛夏の陽光が緑の芝生を白く照らし、一帯を取り囲む木々の間で蝉しぐれが反響する。熱帯夜明けで早くから30度を超えていたが、参集した人たちは額から汗を噴き出しながらも、静かに頭を垂れていた。

日本人の多くが原爆の犠牲者に祈りを捧げる8月6日、横浜市保土ヶ谷区の丘の上にあるここ英連邦戦死者墓地でも、過去に思いを致す集まりがあった。英連邦戦没捕虜追悼礼拝だ。毎年8月の第1土曜日午前11時から行われ、今年で第22回を数える。

今年は約110人が参加

戦争犠牲者への追悼

冒頭、初回から欠かさず参加している関田寛雄・日本基督教団牧師が追悼の辞で、5月のオバマ米大統領の広島訪問に触れながら、「共通の課題として核兵器廃絶と共生世界の現実のために共に働こうではありませんか」と語りかけた。続いて、カナダ大使館付武官のクリス・ディキンソン海軍大佐が英連邦代表として、「戦争を戦った元兵士たちが和解できるなら、私たちも個人として、また国として和解することができます」と挨拶。参加者は、粛々と続くスピーチに身じろぎもせずに耳を傾け、讃美歌を歌って献花した。

日本が降伏するおよそ5カ月前の1945年3月17日。この日が彼の生きた最後の日。英国人として戦争に行って捕虜となり、日本で死んで埋葬された。享年24歳——。等間隔に設置された足元の墓石プレートに目を落とすと、例えばそういうことが分かる。参加者が祈りを捧げるのは、このようにして亡くなった捕虜をはじめとする過去の戦争で犠牲になった人たちだ。

約8エーカーの敷地に、名前や享年が書かれた約1700の墓石並ぶ

日本人による礼拝

英連邦戦死者墓地は、英連邦戦死者墓地委員会(CWGC、本部:英国)が管理している。この団体は、英連邦諸国で軍役に従事し、第1次、2次の両世界大戦で亡くなった約170万人を慰霊。戦没地で葬るというルールにより世界154カ国に設けられた墓地(2400カ所)と、墓地以外の小さな場所(2万3000カ所)を守っている。これらは英連邦にとって大切な場所となっており、その一つである横浜墓地にも、関係各国のVIPが来日時に立ち寄るのが恒例だ。訪問者には英国のエリザベス女王も名を連ねる。

年間を通して追悼のセレモニーが執り行われているが、当事者国主催の式典が多い中、日本における追悼礼拝は唯一、市民によって催されるものとなっている。そこに心を動かされ、身内が日本の捕虜になった家族の歴史を抱えながらも、駐在中に欠かさず参加した人もいる。地元からの参加者も多く、献花役を担った予備校生、森井基貴さん(19)は高校3年生だった昨年、学校の先生の案内で初めて訪れ、今年は友人を誘って自ら足を運んだ。「まずは身近な人から、『こういう場所があるよ』と伝えていきたい」と話す。

献花する森井さん(左)。見守る参加者は『埴生の宿』(英題:『Home, Sweet Home』)の歌声を捧げた

戦争記憶の継承

追悼礼拝は、戦後50年を迎えた1995年、3人の日本人の発案で始まった。多数の連合国軍捕虜やアジア人が徴用された「泰緬鉄道(※1)」敷設工事に陸軍憲兵隊の通訳として関わった故永瀬隆さん、国際基督教大学名誉教授の故斎藤和明さん、青山学院大学名誉教授の雨宮剛さん(81)だ。永瀬さんと斎藤さんは、泰緬鉄道敷設工事で強制労働させられた元捕虜アーネスト・ゴードンによる本『クワイ河収容所』(ちくま学芸文庫、1995年)を斎藤さんが翻訳したのをきっかけに知り合い、永瀬さんと雨宮さんは、永瀬さんの著書を通じて親交を深め、斎藤さんと雨宮さんは永瀬さんの紹介で出会った。思いを同じくした彼らによる追悼礼拝の趣旨文は、捕虜に多数の犠牲者を出したとして日本が非難されているバターン半島の「死の行進」(※2)などの事実を直視した上で、「『平和を創り出す者』として、戦争の記憶を継承していく使命を果たしてまいりたいと願っております」と結んでいる。

会場には斎藤さん(左)と永瀬さんの遺影も飾られた

捕虜の“殺害”は許されない大罪

この墓地を訪れる元捕虜にも向き合ってきた雨宮さん。「誠に申しわけないことですが、来てくださるということは許しの第一歩。それが嬉しい。交流が必要です」

雨宮さんは追悼の動機をこう語る。「捕虜は武器を捨てた人。こういった人たちを、強制労働とか拷問とか飢えとかで、殺してしまった。日本が国際条約に従って彼らを待遇していたならば、彼らは十分に食料が与えられ、過酷な労働も強制されず自分の国に帰って、愛する者に会えた。これは日本の本当に大きな罪だと思っています」。軍国少年だった小学生の頃に終戦を迎え、「戦後70年、軍国主義から自らを開放することが私の人生だった」と言う。米国による広島・長崎への原爆投下を「米国の最大の罪」と主張するなど、戦争における罪が日本にだけあるとは思っていない。ただ、だからと言って、それが日本の行為を見過ごす理由には決してならないと信じている。

多数のボランティアが運営を支える

礼拝はキリスト教式で行うことになったが、それは戦没捕虜の多くがキリスト教徒であり、その信仰を尊重してのこと。礼拝の参加者はキリスト教徒に限定していない。今では、呼びかけ人の志に共感した人たちがボランティアとして主催の実行委員会を支え、毎年100人を超える参加者を迎える。

墓地は、英国、豪州、カナダ・ニュージーランド、インド・パキスタンの4区画で構成されている。礼拝は、門を通ったすぐの一番広い英国区で行われるが、納骨堂と残り3つの区画も回って花を捧げる。献花に合わせて歌を歌うのも伝統だ。国にちなんだ選曲が心がけられ、参列者が事前に練習できるようにSNSを通じて動画でメロディーと歌詞を紹介。例えば今年、豪州セクションでは同国民謡『ウォルツィング マチルダ』が歌われた。

木陰に身を寄せながら追悼を行う参加者たち

捕虜たちの苦難を胸に刻む

「25歳になる長男も、『おじいちゃんが始めた大事なこと』という意識はあるようです。次の世代に繋げていきたい」と語る斎藤さん

全てを終えるのに1時間はかかる追悼礼拝。暑さで体調を崩して救急車で搬送される人が出るなどし、昨年からできるだけ木陰を利用して開催することになったものの、特に高齢の参加者にとって炎天下での集会はつらい。実行委員会では給水所を設け、礼拝の最中も積極的に水の補給を促す。ただし、現在のところ開催時期に変更の予定はない。南方の地で過酷な労働を強いられた捕虜のことを胸に刻む日として、暑さやのどの渇きもまた礼拝の大切な要素の一つととらえられている。

故斎藤さんの長女で実行委員のメンバーの斎藤眞子さん(54)は「暑い熱帯雨林で強制労働させられた人たちの気持ちが一番分かるんじゃないかって、父はそういう思いだったみたいです」と、礼拝を終えて暑さを振り返りながら話した。「母国とは全く違う熱帯地方の気候の中、服もなく靴もなく強制労働させられたことは想像に絶します。私もそれを思い、礼拝中に参加者に対して水を勧めることに当初抵抗を覚えたほどでした」と話す。

追悼は戦争体験者がいなくなった後も

2000年からマネジャーを務める小林さん。英連邦の捕虜が眠る墓地を守る仕事に、「一つの使命として関わっています」

この墓地を管理する英連邦戦死者墓地委員会のマネジャー小林賢吾さん(62)は、グレーのスーツの背中一面を汗で染め、額を何度もぬぐった。毎年、参加しているという。泰緬鉄道敷設建設の現場になったタイのカンチャナブリを訪れた経験を紹介し、「自分が直接戦争に参加したわけではないけれども、自分にも後の世代として責任があると思っています」と話した。

3人の思いから始まった礼拝は20回を超え、実行委員会は次世代に引き継がれている。雨宮さんの教え子で現在、その代表を務める牧師の奥津隆雄さん(49)はこの日、平和と和解への道のりは長く厳しいものだとしつつ、「独りでは難しいかもしれませんが、一緒ならできるはずです。共にその道を歩いてまいりましょう」と参加者に向かって呼びかけた。

「戦争の罪はそう簡単に許されるものではない。心からの謝罪の意を表すこういう追悼式を、戦争体験者がいなくなった後でも続けて、初めて許されるのではないか。私はそう思っています。ですから、この礼拝を今後100年でも200年でも続けていってほしい」。戦後71年目の夏、雨宮さんは祈るようにして話していた。

取材・文=益田 美樹
写真=花井 智子

バナー写真:横浜市にある英連邦戦没者墓地

(※1) ^ 泰緬(たいめん)鉄道:第2次世界大戦末期、日本陸軍がインド侵攻作戦遂行のため建設したタイ(泰)国とビルマ(緬間、現在のミャンマー)を結ぶ軍事鉄道。これはタイのノンプラドックからビルマのタンビサヤに至る延長距離415キロメートルに及ぶ鉄道で、1942年7月着工、翌年10月に完成した。英国など連合国捕虜6万8000人とアジアから連行された20万人とも30万人ともいわれる「労務者(ロームシャ)」がこの建設のため強制労働させられた。過労や栄養失調、マラリヤ、コレラ、などの病気、虐待などのため、連合国捕虜は1万3000人、アジアの労務者は(正確には分からないが)約半数が犠牲になったという。この事実は「枕木1本ごとに一人の命が奪われた」と今も語り継がれ、日本軍が戦時中行った残虐行為中最も凶悪なものとして「死の鉄道」の名で記憶されている。(「英連邦戦没捕虜追悼礼拝の趣旨」を基に作成)

(※2) ^ バターン半島の「死の行進」:マニラ湾に突き出したバターン半島の攻防は1942年4月9日、米極東軍が日本軍に降伏して終了。日本軍は、激しい戦闘で消耗したフィリピン軍人7万人、民間人4万人及びアメリカ軍人1万人を、バターン半島先端のマリベレスからパンパンガ州サンフェルナンドまで100キロメートルを歩かせ、そこからタルラック州カパスまで貨車で輸送し、さらに捕虜収容所のあるオドーネルまで12キロメートルを徒歩で行進させた。この間食料も水も十分与えず、犠牲者は、米国人1600人、フィリピン人2万9180人に達した。軍事史上「最も過酷な行進」といわれるゆえんである。(同)

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