戦争を考える

クワイ河に虹をかけた男・永瀬隆—その贖罪と和解の半生

社会 Cinema

太平洋戦争中に日本軍が行った泰緬鉄道建設における犠牲者を弔うために、永瀬隆さんは半生を捧げた。その姿を追った映画が公開され、静かなブームを呼んでいる。彼の背中は何を語るのか。反響に何が見えるのか。

9月3日土曜日の正午すぎ、東京都中野区の映画館「ポレポレ東中野」のロビーは、開場を待つ人で身動きがとれないほど混雑していた。お目当てはドキュメンタリー映画『クワイ河に虹をかけた男』。陸軍憲兵隊の通訳として泰緬(たいめん)鉄道建設に関係し、戦後その贖罪(しょくざい)と和解の活動に一生をささげた故・永瀬隆さんを、約20年にわたって追った作品だ。壁面に貼られたポスターには、「たった一人の戦後処理」というコピーが躍る。

1941年撮影の軍服姿の永瀬隆さん

泰緬鉄道はタイ(泰)とビルマ(緬甸)を結ぶ全長415キロの軍事鉄道で、日本軍が、インパール作戦に向けて物資輸送の手段を確保するために建設を計画。距離に照らすと完成に必要な年月は5年とも言われたが、1942年6月に着工し、わずか1年半足らずで完成させた。この驚異的な突貫工事を遂行するために、日本軍は連合国捕虜約6万人や、周辺国の25万人以上の労務者を動員。劣悪な環境の下で虐待も伴う過酷な労働を強い、多くの死者を出した。その数、捕虜約1万3000人。アジア人労務者は推定数万人とされている。「死の鉄道」とも評されるゆえんだ。

連合軍の墓地詮索隊。左端が永瀬さん

永瀬さんは終戦後、連合国軍が行った墓地捜索隊に同行したことをきっかけに、日本軍が捕虜に強いた行為と改めて向き合う。そして日本人が戦時中に行ったことを悔い、犠牲者を慰霊するため、一般人の海外渡航が自由化された64年から妻の佳子さんとタイへの巡礼を始めた。犠牲者の追悼と合わせ、76年には建設現場の一つであるクワイ河鉄橋で元捕虜と旧日本軍関係者が再会する事業を実現。86年には、「空腹だった全日本兵のために復員時、米と砂糖を支給してくれたタイへの恩返し」(永瀬さん)としてクワイ河平和基金を創設し、経済的困難を抱えた子供たちの進学支援を始めた。

クワイ河平和基金の奨学金授与式で、元奨学生から贈り物を手渡される永瀬さん(右)

このほかにも、タイから帰国できないでいた元労務者を見つけ出し、祖国への帰還を実現させるなど、延べ135回にわたるタイ訪問を通じて、贖罪と和解に力を尽くした。すべて私財や賛同者からの寄付を投じての、個人的な行いだった。

ジャワ島から動員され、タイから帰郷できずにいた元労務者。永瀬さんが支援し、95年に故郷への帰還を果たした

人間が人間を大切にするということ

映画は、永瀬さんが暮らした岡山県をカバーするKSB瀬戸内海放送の満田康弘さん(54)が、1994年の82回目のタイ巡礼から、永瀬さんが2011年に93歳で亡くなりタイで散骨されるまでを追った膨大な映像を、約120分に再編集したものだ。永瀬さんが、タイの人たちから「お父さん」と慕われ、元捕虜からは「握手できるたった一人の日本人」「レジェンド」と称されるまでに至った軌跡が凝縮されている。

上映後のトークイベントでこの日、映画評論家の中川洋吉さん(74)は次のように講評した。「この国(日本)の人たちは、はっきり言って白人には優しいが、アジアの人々に冷たい。それがね、永瀬さんはちゃんと彼らも見ているわけですよ」。「(アジアの人々は)25万人も徴用されている。その点をもっとわれわれは心に留める必要があると思うし、単なるごめんなさいじゃなくて、じゃあ自分で何かしてみようと(永瀬さんは実践した)。そこがこの作品にひき付けられるところじゃないかと思います」。監督の満田さんも、こうした永瀬さんの稀有な姿勢への共感が、長年にわたる取材の原動力になったと話した。

「永瀬さんのような人は非常に少数。だんまりを決める人がほとんどです」。およそ100人の戦争体験者の聞き取りを行い、永瀬さんにも取材したことのある写真家・フォトジャーナリストの山本宗補さん(63)も、後日のトークイベントで永瀬さんの一貫した活動を称えた。「国・政府がやるべき戦後処理を、奥様と共にやってきた。これが映画の重要なポイントだと思います」

ロードショーは8月27日から始まり、観客数は日を追うごとに増えた。正午すぎの1日1度の上映にもかかわらず平日も全約100席が埋まってしまう状態が続き、とうとう立ち見でも入りきれなくなったことから、ポレポレ東中野では9月上旬に1カ月の延長を決めた。「お昼の上映ということもあり、客層はシニアが多い。もっと若い人たちにも見てもらえたら」(ポレポレ東中野)。延長後はアフターファイブの上映も行う。

日本社会におけるニッチな戦争テーマ

ここまで反響が広がったのはなぜか。「主要紙などメディアで紹介されたことが大きい」とポレポレ東中野は話すが、満田さんは、観客にとっての「驚き」も背景にあると感じている。「例えば原爆の話だとか空襲の話だとか、特攻隊の話だとかもう本当に繰り返し語られてきていますよね。しかし、この泰緬鉄道の話や、戦後こういうことをやった人がいるという話は多くの人にとって初めて聞く話。それで、『こんな人がいたのか』と、かつて私が永瀬さんに初めてお会いした時に感じたような驚きがあったんじゃないでしょうか。ニッチ商品という言葉がありますが、そのニッチのところに入り込んだのが、これだけ関心を持っていただけた理由かなと思う」

永瀬さんを20年間追い続けたKSB瀬戸内海放送の満田康弘さん(撮影:花井智子)

事実、泰緬鉄道や永瀬さんの存在は日本ではあまり知られていない。しかし欧米ではかなり有名な話となっている。例えば英国では、元捕虜エリック・ロマックスが、永瀬さんとの再会までを自伝『The Railway Man』にまとめて大ベストセラーになるなど、多くの元捕虜が手記を出版し、日本が降伏した8月には、これに関連した番組がテレビのゴールデンタイムに繰り返し放送されている。トークイベントで、そのような海外の事情を満田さんが説明すると、会場は一瞬静まり返った。

現在のクワイ河鉄橋。タイの観光スポットとなっている

「地元岡山で試写を行った時、オーストラリア出身のご婦人が『いい映画でした』と言ってくれ、僕もついうれしくなって『オーストラリアでもいつか上映したいです』と申し上げたら、『まず日本でしょ』と。すごく、本当に響いた言葉です」(満田さん)

加害を意識するのに必要な年月の長さ

「みんなが気づくには、これぐらい月日がかかるのかな」。大きな反響と称賛の声を目の当たりにし、俳優の佐生有語さん(43)はつぶやくように言った。佐生さんは、この映画に登場する主要人物の1人だ。泰緬鉄道建設の生き残りの元捕虜アーネスト・ゴードンが自らの体験を記した『クワイ河収容所』を基に制作された、2001年公開の米映画『To End All Wars』に、タカシ・ナガセ役で出演した。これが縁でハワイでの撮影が終了したばかりの2000年7月、永瀬さんを自宅に訪ねたのを機に交流を始めた。それから約4年、バイト代をつぎ込んで毎回のように永瀬さんのタイ巡礼に同行した。

社会全体が豊かさ追求に熱中していた時代に、一貫して日本の暗い過去に向き合い続けた永瀬さんを、佐生さんは「異端児」と呼び、世間の風当たりも強かったのではないかとおもんぱかる。現に、日本側の悲劇を描いた本や映画は毎年のように生み出される一方、日本軍による捕虜の扱いも描いた出演作は、米国の映画祭で受賞を果たしたにもかかわらず、日本では未公開のままだ。今回映画に足を運んでいる客層がそうした戦後社会のただ中にいた人たちだということを、佐生さんは看過しない。

「(劇場で映画を見ている人は)具体的に感じないんじゃないかと思う。人間、自分は違うと思いがちやから。今、永瀬さんをこうやって見て共感し、自分は分かっている方やと思いがちやから。でも、深いところで罪悪感みたいなものはあるんじゃないかと思う。具体的なものは出ないかもしれないけど、負い目みたいな」(佐生さん)

これまで加害の問題を直視してこなかった人たちを、佐生さんは批判していない。しかし、タイ巡礼などを通して「真の謝罪と和解は、その世代の当事者同士にしかできない」と実感し、それが実現されずに来た現状に、取り返しがつかないような複雑な思いを抱えている。

「あなたは私が手を握り合いたいたった1人の日本人だ」。謝罪の気持ちを本で知ったという元捕虜から握手を求められる永瀬さん(左)

関心のない人たちにこそ届けたい

「客層の年代、圧倒的に高いよね」。映画監督の熊谷博子さん(65)はロードショーを前にメールを通じて映画のことを知人友人に紹介した。予想以上の反応があったが、永瀬さんの存在をもともと知っていたり、捕虜の問題に取り組んでいたりする人たちが関心を示したに過ぎないとも感じた。映画への反響は大きいとはいえ、それは特定の人たちの間だけではないかと冷静に指摘する。

熊谷さんの父親は軍医で、鉄道開通後ではあったものの、泰緬鉄道のタイ側の起点となったノンプラドックの病院で責任者を務めていたことがある。しかし、負の側面を全く語らず、「あの頃は良かった」とまるで国費で海外旅行が楽しめたとでもいうような口ぶり。同じく高級将校だった祖父も同様で、家族の食卓で交わされた戦争に関する明るい会話に「何なんだ。この人たちのメンタリティーは」と強い疑問を持ったのが「今に至る原点」だ。

熊谷さんは、過去の戦争を体験した人から話を聞き、現在の紛争地域も取材した。その経験を通して、異常な状態を生み出す戦争の「真実」を伝えることには特別な思いを持っている。だからこそ熊谷さんは、監督の満田さんがこれまで製作してきたのが、規制も多いテレビという媒体だったことを分かった上で、あえて言う。「映画はもっと自由なメディア。この映画は良い作品だけど、『次につなげる。若い日本人に見せていく。知ってもらいたい』というメッセージがもっと込められていたらさらに良かった」。若者も含め、多くの人たちに「真実」が伝わることを願っている。

2008年、体の不調をおして134回目の巡礼を決行した永瀬さん。クワイ河に虹がかかり、満面の笑みを浮かべた。「天国への橋じゃ」

思いは満田さんも同じだ。「みんな、僕も含めてなんですが、歴史をあまりにも知らない。だから、何かあったか知っておこうよ。そして、自分のこととして考えてほしい」。戦争をテーマにした仕事を手掛ける時、ジャーナリストとして込めるのはこんなメッセージだ。

満田さんの視線は、今回の映画では加害者側に位置付けられた日本人兵士にも向けられている。特に、1944年に豪州の捕虜収容所で、日本人捕虜が「死ぬための集団脱走」を決行したカウラ事件。「日本人の悪しき集団主義、空気に流されてしまう同調圧力に対しての強い警告になっている」という思いが強い。

今を考えるために語り継ぐ

「ある高校の放送部で、カウラ事件について調べていた女子高生が面白いことを言っていました。『例えば友だちが似合わない服を着ていても似合うよと言ったり、トイレに行こうと言ったらみんな一緒に連れ出て行ったりする。そんなことは、みんな普通にやってるでしょ。カウラの捕虜の人たちも同じだったんだよ』と。それがすごく印象に残りました」(満田さん)

戦中にあった同調圧力も集団主義も、形や程度の差こそあれ、現代社会に生きる私たちの暮らしの中にいまだに潜んでいる。こうした当時と今の共通点に気づく時、たとえ戦争を知らない世代でも、戦争を自分の問題として考えるようになる。女子高生の発言は、彼女らがカウラ事件を深く理解しようとしている証だと言ってもいい。

「大事なのは、ただ語り継ぐのではなく、過去に起きたことから今につながる教訓を得る、それを考える材料にすることだと思います」。満田さんが永瀬さんとの20年で見つけたのは、こうした戦争との向き合い方だった。

134回目の巡礼で永瀬さんが見た、クワイ河にかかる虹

※10月以降も東京を含む全国で上映を予定している(詳細はこちらのサイトから映画『クワイ河に虹をかけた男』

取材・文=益田 美樹

バナー写真:生涯で135回にわたってタイ巡礼を続けた永瀬さん

写真提供:瀬戸内海放送(インタビュー写真は除く)

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