日本のレジェンド

秋吉敏子:ジャズ史に輝くピアニスト・作曲家

音楽 文化

日本人でただ一人、ジャズ界最高の栄誉とされる「ジャズマスター賞」を受賞した世界的なジャズピアニスト。1956年に単身渡米し、以来米国を拠点に精力的な活動を続けている。

いまや日本のジャズミュージシャンも世界を股にかけて活躍する時代になった。しかしそれは比較的最近の話で、1950年代から60年代にかけてそんなことはあり得なかった。その時代、唯一と言っていい存在がピアニストの秋吉敏子だった。

本格的なジャズに開眼

1929年12月12日に満洲・遼陽で生まれ、小学1年生でピアノを習い始めた彼女は、終戦後、大分県に引き揚げ、16歳の時に別府の駐留軍キャンプでジャズピアニストとしての活動を開始する。仲間のミュージシャンに勧められて上京したのが48年のこと。その頃の東京には、終戦後ということであちこちに駐留軍のキャンプがあった。そこでは夜ごとにさまざまなエンターテインメントが提供され、楽器が弾けるならいくらでも仕事があった時代だ。その中で彼女ももまれていく。

「バンドはたくさんありました。今のようなフリーランスの時代じゃないから、ミュージシャンは一つのバンドに属しているわけです。いろいろなところにダンスホールがあって、日本人用、アメリカ人用という具合に数が多かった。だから、それだけミュージシャンが必要だったのだと思います。ほとんどが海軍や陸軍の軍楽隊出身。そういう連中の若い人、それと昔、上海あたりのボートで演奏していたミュージシャンたちが親玉みたいな感じでやっていた時代です」と秋吉は当時を振り返る。

しかしそうした仕事に飽き足らず、秋吉は米国から届けられた最新のレコードを聴きながら、本格的なジャズの演奏に開眼していく。

日本では、ダンス向けのスウィング・ジャズに人気があり、戦時中に米国で登場したビバップと呼ばれるモダン・ジャズには関心の目が向いていなかった。ミュージシャンにも、それがどのような理論と仕組みで演奏されているのか分からない。まさに手探りの状態で、秋吉を中心とした一部の熱心なミュージシャンは、最新の輸入盤が置かれているジャズ喫茶に通い、それらのコピーに励んでいた。ところが、「そういう演奏はお客さんに受けない。だから、何度も店をクビになった」そうだ。

それでも秋吉はめげない。最新のジャズを演奏するグループとして彼女が結成したコージー・カルテットには若き日の渡辺貞夫もその後に参加することになる。「お金にはならなかったけれど、好きな演奏ができる喜びの方が大きかった」

オスカー・ピーターソンとの出会い

秋吉に大きなチャンスが巡ってきたのは、1953年に「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」と呼ばれるライブイベントが開催され、超一流のミュージシャンによる一座が米国から来日した時だ。その中の一人が、人気ピアニストのオスカー・ピーターソンである。

「当時の日本にはジャズを聴かせる場所がなかった。みんなダンスホールでしたから。53年10月に日本で最初のライブハウス、いわゆるジャズ喫茶が西銀座にオープンして、名前がテネシー・コーヒーショップ。その店に自分のバンドで出ていて、渡辺貞夫さんがまだ10代で、私のところに入ったばかりの時です」

そこに遊びに来たのがピーターソンだった。

「彼は私の演奏をすごく気に入ってくれて、それで彼のプロデューサーであるノーマン・グランツに推薦してくれたんです。その結果、レコーディングの運びになりました」

こうして生まれた『アメイジング・トシコ・アキヨシ』が米国で発売されたことにより、秋吉はバークリー音楽院(現・バークリー音楽大学)に奨学生として留学する。

オスカー・ピーターソンの推薦で実現した初アルバム 『アメイジング・トシコ・アキヨシ』。1954年の作品

「54年にレコードが向こうで出たんです。当時、日本人がジャズを演奏すること自体珍しいし、それも女の子となるとましてや、ですよ。それで、端的に言ってしまうと、学校が宣伝材料で呼んでくれたんです。あのころのバークリーは340人ぐらいの小さな学校ですから、生徒を増やすには宣伝が必要だと。だから、レコードが出ていなかったらダメだったと思います」

とはいっても、それだけの実力があったからこその留学である。秋吉の言葉通り、日本の若い女性が激しくビバップを演奏する姿は注目を集め、本場でも大きな話題を呼ぶ。留学中から、彼女は「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」や、学校があるボストンの人気クラブ「ストーリービル」などに出演し、キャリアを重ねていく。卒業後は拠点をニューヨークに移し、本格的な活動を開始している。

「自分のトリオとカルテットが中心で、あとはベースの巨匠として知られていたチャールズ・ミンガスのグループなどで演奏していました」

ジャズ界の最高栄誉に輝く

次なる転機が訪れるのは、1973年に夫のルー・タバキンと秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンドを結成した時だ。

「ルーはテレビの『トゥナイト・ショー』で演奏するようになっていたんです。ある時、番組の収録場所がニューヨークからロサンゼルスに変わったので、私たちも移ったわけです。ロサンゼルスにはスタジオ・ミュージシャンが多く、ジャズがあまり盛んではなかった。でも、ミュージシャン・ユニオンの建物の中にリハーサルルームがあって、これが50セントで3時間借りられる。安いでしょ? 私は67年にニューヨークのタウンホールで自主コンサートをやったんですが、その時ビッグバンド用に5曲を書き下ろした。そのことをルーが知っていて、『自分がミュージシャンを集めるから、君の曲でもやってみよう』というわけね。そういうことでビッグバンドが始まったけれど、最初、このバンドで仕事をしようという考えは誰にもなかった。でも私たちの演奏が人の噂(うわさ)になって、だんだん仕事が来るようになりました」

秋吉は、原則的にこのビッグバンドで自作の曲しか演奏しない。そこに作曲家としての自負と自信がある。日本で大きなセンセーションを呼んだビッグバンド1作目の『孤軍』は、やや遅れて海外でも発売される。これがさまざまな賞を受けたことで、世界中のコンサートに呼ばれるようになった。

秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンドのファーストアルバム『孤軍』。1974年の作品。

以後は、世界中で精力的な活動を重ね、99年には日本人でただ一人「国際ジャズ名誉の殿堂」入りを果たし、2006年にはジャズ界で最高栄誉となる全米芸術基金の「ジャズ・マスター賞」を受賞している。そして今年米寿を迎えた秋吉は、とどまることを知らない創造性でいまも多くのファンに素晴らしい演奏を聴かせている。

21世紀最初の「原爆の日」を迎え、世界平和を願って「ヒロシマ—そして終焉(しゅうえん)」を披露する秋吉敏子=2001年8月6日、広島市中区の広島厚生年金会館 (時事)

バナー写真:米国で権威ある音楽批評誌『ダウンビート』の国際批評家投票において、秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンドが「ビッグバンド部門」で、秋吉敏子が「アレンジャー部門」で第1位を獲得したことを記念する凱旋(がいせん)公演=1979年、新宿厚生年金会館大ホール(撮影:内山繁)

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