ビッグデータ新時代 進化する利活用

ビッグデータが日本ワインを変える

経済・ビジネス

スーパーに安い外国産ワインが並ぶ中、国内のブドウで造られた日本ワインが健闘している。生産者の顔やストーリーがより身近に感じられるのが魅力だという。その品質向上のために、ブドウ栽培の現場でビッグデータが利用されていると聞き、収穫シーズンを迎えた山梨と長野のブドウ畑を訪ねた。

劇的な農薬削減 奥野田ワイナリー(山梨県)

「いい香り。食前酒にもいいわね」

ワイナリー巡りが趣味という東京から来た70代夫婦が、山梨県甲州市にある奥野田葡萄酒醸造(以下、奥野田ワイナリー)のゲストルームを訪れていた。テイスティングの末、4種類のワインを2本ずつ、合計8本を購入。「1本は熟成させてみて、違いを楽しみます」。

10月初旬。甲府盆地の東、塩山~勝沼のエリアは、たわわに実ったブドウ樹に覆われる。明治時代に日本で最初にワイン醸造が始まった歴史あるこの土地で、センサーと無線ネットワークによるICT(情報通信技術)を駆使した栽培管理に挑戦し、劇的な農薬削減を実現したのが奥野田ワイナリーだ。

瓶詰めされ、倉庫で出荷を待つ奥野田ワイナリーのワイン

見えるようになった「畑に迫る危険」

社長の中村雅量さん(55)は、「無農薬を目的として始めたわけじゃないのです。ワインの品質を上げたい。その1点の取り組みを続けてきて、結果的にそうなっただけです」と言う。

東京農業大学で微生物学を学んだ中村さんは、「畑の微生物環境を豊かにすることが、よい品質のワインを生み出す」という信念を持っていた。1998年に自社圃場(ほじょう)での ブドウ栽培を開始して以来、地中深くのミネラルを吸えるように、密植で根を深く張らせたり、無肥料、不耕起栽培で雑草の根を残し、地中の微生物環境を守ったりすることを実践してきた。

2010年、富士通社員の農村支援活動で圃場を貸し出したのがきっかけで、富士通側からネットワークを使った気象センサー設置の提案があった。中村さんは、10分ごとの気温・湿度・日射量などのデータを自動計測し、蓄積していくことで、「畑に迫る危険の“見える化”」が可能になるのではないかと考えた。

11年にはセンサーが設置され、蓄積されたデータと実際に畑で起きていることの検証が繰り返された。その結果、重要な事実が明らかになってきた。

すべてはおいしいワインを作るために

「殺菌剤は、病気のもととなるカビの発生を未然に防ぐために、定期的に圃場に撒かなければなりませんでした。ところが、蓄積したデータを分析してみたら、本当にカビが発生する危険な日は、年に4回くらい。悪い時でも8回くらいしかないことが分かりました」

カビは高温多湿の状態が続くと、いっせいに菌糸を出す。胞子の状態では殺菌剤を撒いても効き目がないが、「発芽したてのカビが一番弱い。その状態なら、Tシャツのままで撒いてもいいくらいに薄めた殺菌剤でもやっつけられるのです」

その絶妙のタイミングを、蓄積した気象データから予測して知らせてくれるシステムが開発された。適切な時期に最小限の殺菌剤で防除ができるようになった。

奥野田ワイナリーの圃場に設置された富士通のセンサー機器。収集されたデータは無線ネットワークで送信される。左は中村社長

豊かな微生物環境は、豊かな野生酵母を育て、醸造にも良い影響を与えている。

「微生物がリッチになり、野生酵母を大事にしたワインは表情が豊か。すべてはおいしいワインを作るための微生物の環境づくりのためなのです」

ワインは土地に根差したもの

ワインは果汁だけから作られるお酒のため、「味の8割がブドウで決まる」とよく言われる。それゆえ、ブドウの生育にとってよい条件の畑で生産されることがとても重要だ。

例えば、フランスの最高級ワインであるロマネ・コンティが、ブルゴーニュのわずか1.8ヘクタールの特級畑(グラン・クリュ)から生まれることは有名だ。ブルゴーニュのような起伏に富む地形では、畑ごとに気候や土壌の差が生まれ、ブドウの生育や熟し方にも差が出てくるので、畑は細かく厳密にランク分けされている。ワインの世界で使われる「テロワール」という言葉は、気候や土壌などブドウの生育に影響を与える自然環境のことを指すが、そのワインが体現する「土地の味」だとも言える。

日本国内でも、「土地の味」を生かしたワインづくりは急速に進んでいる。ブドウの栽培から始め、品質の良いワインを作ろうとする生産者たちの努力が実り、今では国際コンクールで入賞する日本ワインも増えてきている。

2018年からは、国産のブドウのみを使ったものだけが「日本ワイン」と名乗れるよう、表示ルールが変更される。すでに「山梨県産ブドウ100%」などとラベルを付けたワインもある。国内では現在、北海道から九州まで250件以上のワイナリーがあるが、各地でワインブドウの畑が増えるにつれ、土地ごとの標高や気温、土壌などに合ったぶどう品種の研究も進みつつある。

ICTで栽培管理 千曲川ワインバレー(長野県)

長野県・千曲川流域の東信地区でも、ICTを活用したブドウの栽培管理を行う試みが始まっている。信州大学が総務省の「IoT(モノのインターネット)サービス創出支援事業」として委託を受けて進めている事業で、環境計測機器メーカー「ウイジン」と地域のワインブドウ生産者が参画している。

千曲川ワインバレーにある「ヴィラデスト ガーデンファーム アンド ワイナリー」(長野県東御市)。日当たりの良い河岸段丘が続き、ブドウ栽培に適した土地が広がる

3つのデータ分析で生産者支援

「千曲川ワインバレー」の東部にあたるこのエリアでは、新しいワイナリーの設立や、ワインブドウ栽培への新規参入が盛んだ。現在は上田市、東御市などの圃場10カ所に計測機器を設置。気温・湿度・日射・雨量などの10分ごとの気象データを蓄積している。

生産者にはブドウの成長段階や防除記録をデータ入力してもらい、実ったブドウは大学が回収して成分データを記録する。今後、この3つのデータを合わせて分析・解析を進め、収穫や防除の最適なタイミングを予測するなど、ワインブドウ生産者の栽培支援につなげていく。

4年前に東京から移住し、栽培を始めた伊澤貴久さんのブドウ畑(長野県立科町)に設置されたセンサー。千曲川ワインバレーの一画を担う

千曲川ワインバレー分析センター研究員の亀山直樹さん(52)が説明する。「信州産ワインの『地理的表示』の議論が始まっていますが、その品質基準の明確化に寄与することが目的。蓄積データから地域特性を抽出し、ブランド力の強化につなげたいと考えています」

地理的表示とは「ボルドーワイン」「ブルゴーニュワイン」のように、産地名をブランドとして保護するための制度だが、これには統一的な品質基準が必要になる。長野県産のワインも、それがどのような特徴を持つのか解明していく必要がある。現在のデータの蓄積は、その第一歩というわけだ。

圃場から毎朝ブドウを回収して成分を分析し、記録する亀山直樹さん

ブドウの成分変化を示すデータ。これらに気象・土壌データなど結びつけて解析していく

蓄積データで経験を分かち合う

気象データは機器が自動蓄積できるが、栽培記録は生産者に入力してもらわなくてはならない。現在は試験運用しながら、使いやすいシステムを開発中だ。

「萌芽や展葉、開花といった生育ステージの移り変わりや、防除の記録を入力してもらっています。畑でも簡単に入力できるよう、片手でスマートフォンの画面を操作するようなインターフェースを目指しています」と、2年前まで電機メーカーの技術者だった亀山さんは話す。

「蓄積されるデータは、やがて後進の生産者の学習ツールになっていく。他の人のデータを参照し、お互いの経験を分かち合うことで、それぞれが自分の経験知の一部にすることができる。それによって地域全体が発展していけば」

見事に実り、収穫を待つメルロー種のブドウ(長野県立科町)

「e-kakashi」と安曇野池田ヴィンヤード(長野県)

いま、農業分野ではドローンや衛星まで使った「スマート農業」が叫ばれ、気象や土壌、衛星地図など、農業に関するビッグデータの連携基盤を作ろうという動きが急ピッチで進められている。その背景には、担い手の減少、高齢化や、地球規模の気候変動、環境変化への対応がある。

熟練農家の知見を反映した栽培レシピ

ソフトバンクグループ傘下のPSソリューションズが2015年に開発したAI(人工知能)搭載の小型農業センサー「e-kakashi(いいかかし)」は、そのおしゃれなデザインや設置の手軽さなどもあり、現在、水田やトマトの畑など約300カ所で稼働する。気温、地温、日射照度、積算温度などのデータを蓄積するだけでなく、コメならば「積算温度が1000度に達しました。収穫ができます」など、そのデータの意味を教えてくれるのが特徴だ。

国際次世代農業EXPOで展示された「e-kakashi」。ビニールハウスの換気窓や畑の潅水(かんすい)バルブなどと連動した、AIによる遠隔制御機能を搭載した新モデルが発表された=2017年10月、千葉市の幕張メッセ

「e-kakashi」の親機(左)と子機(右)

発案者の山口典男同社フェロー(54)は、「気象、土壌データを専門家が分析し、現場の熟練農家の知見を反映した栽培レシピを提供できるのがe-kakashiの最大の強み」と胸を張る。

「違い」を探る最先端の挑戦

今年6月からは、このe-kakashiが長野県池田町のサッポロビール「安曇野池田ヴィンヤード」に導入された。担当したPSソリューションズの戸上崇博士・グリーンイノベーション研究開発部長(36)は、三重大学大学院で植物科学とITの融合領域を研究してきた専門家だ。

「ここの圃場の中でも、すごく出来のいいブドウと、平均的なブドウができる場所がある。場所が違えば地温も違い、根の活性度も変わってくると考えられるので、それらが最終的な品質に影響を与えているのでは、という仮説が成り立ちます。e-kakashiなら一本一本の植物が感じるデータを取ることができるので、複数個所にセンサーを置くことで、なぜ違いが出るのかを解明しようとしています。ワインブドウの樹の状態を見る目をお持ちの高度な栽培技術者がいる圃場だからこそできる、最先端の挑戦ですね」

池田町が位置する日本アルプスワインバレーは、長野では最も古くからブドウ栽培が行われてきた。日照時間が長く昼夜の寒暖差が大きいことや、水はけのよい土壌などがブドウの生育に適していると言われるが、e-kakashiでの分析がこの地のテロワールの科学的解明に近づけるのか。興味深い試みだ。

期待される世代を超えたビッグデータ

自然なワイン造りを実践し、「神の手を持つ男」とも言われたフランスの醸造家アンリ・ジャイエは20世紀後半、科学技術の進歩と大量消費社会がもたらすワインの画一化に警鐘を鳴らした。しかし、いまや日本のワインブドウ畑で起こっているテクノロジー革命は、「より自然を生かしたワイン造り」の方へ向かっている。

千曲川ワインバレー分析センターのスタッフとして、届けられたブドウの成分分析を続ける北沢美佳さん(29)の語った言葉が印象的だった。

「一人一人の栽培の経験がデータとして蓄積され、共有されていけば、お互いに何倍も知る機会を得ることができる。自分の世代ではわからなくても、次の世代で解明されることもあると思います。いまはそのための出発点です」

世代を超えて蓄積していく膨大な生産データが、想像を超えるようなすばらしい日本ワインの誕生につながっていくことを期待したい。

取材・文:岡本 なるみ

写真:岡本 麻里(奥野田ワイナリー)、三浦 健司(千曲川ワインバレー)、岡本 なるみ(幕張メッセ・「e-kakashi」)

バナー写真:サッポロビールの安曇野池田ヴィンヤードに設置された小型農業センサー「e-kakashi」=PSソリューションズ提供

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