SNS

記事カテゴリー

ニュース

More

シリーズ 生きづらさを感じている人たちへ:ささやかなメッセージ
私たちはなぜ「孤独」を恐れるのか?

泉谷 閑示【Profile】

[2018.03.23]

人は「孤独」を避け、「孤独」な存在であることを感じないようにするために「空白の時間」を紛らわそうとする。「孤独」とは、それほどまでして避けるべきものなのか、クライアントと日々対峙(たいじ)している精神科医からのメッセージ。

「空白の時間」から逃れるためのツール

現代において私たちは、物質的には不自由を感じることが少なくなり、昔に比べればかなり快適な生活が可能になった。しかし奇妙なことに、物質的充足に反比例するかのように、心のどこかに漠然とした虚しさを抱える人が増えてきている。たとえ欲しかった物を手に入れたとしても、ほんのしばらく気が紛れるだけで、この虚しさがすっかり消え去ることはない。

そのような現代人のニーズを見事に捉え、虚しさを紛らしてくれるツールが次々と開発されている。それらのツールは、私たちが「空白の時間」にさらされて虚しさを感じないように、簡単に注意をそらせない仕掛けが満載だ。

ひと昔前にはその代表的ツールはテレビだったが、これにスマホが取って代わった。電車の中でも街角でも多くの人がその画面にかじりついている姿は、すっかりおなじみの光景となっている。横断歩道を渡る時でさえスマホから目を離さない人も、決して珍しくはない。

しかしなぜ、私たちは躍起になって貴重な人生の時間を潰し、気を紛らそうとするのだろうか。

「孤独」についての誤解

私たちが「空白の時間」を必死で避けようとするのは、「孤独」から逃れ、「孤独」な存在であることを感じないようにするためである。私たちが「孤独」を恐れている限り、「空白の時間」など生じないように、必死で気を紛らし続けなければならないのだ。

しかし、「孤独」とは、それほどまでして避けるべき恐ろしいものなのだろうか。

ドイツ生まれの哲学者ハンナ・アーレント(1906-75)は、人間が一人である状態について、「孤独(solitude)」と「孤立(loneliness)」と「孤絶(isolation)」の3種類があると述べている。

「孤立」は、別の言い方をすれば「ひとりぼっち」といったイメージであり、その状況を苦にしてばかりいて、「自分自身ともうまくつながれない状態」のことである。「孤絶」とは、何かの作業に気を取られてしまっていて、他の人とのみならず、「自分自身ともつながっていない状態」のことだ。

しかしアーレントは、「孤独」についてはとても望ましい状態と捉えていて、そこにネガティブニュアンスはまったくない。そして、「孤独」とは「一人のうちで二人」になっている状態であるとも述べている。

では、この「一人のうちで二人」とは、一体どういうことなのだろう。

「一人であるが二人」ということ

この問題を考える上で、まずは、人間がどんな仕組みになっているかについて、理解しておかなければならないだろう。

人間のしくみ
頭―理性の場
心―感情、欲求、感覚(直感)の場

私は従来の心理学のスタンダードな図式だけでは、人間に生ずるさまざまな現象をうまく説明し切れないと感じ、ある時から次のような図式で人間を捉えるようになった。これは、実際の診療においてもかなり有用であり、一般の方たちにも理解しやすい図式ではないかと思うので、この図式を用いて説明したいと思う。

私たち人間は、他の動物と同じように、大自然由来の野性原理でできている「心=身体」が基盤になっている。その上に、進化の過程で発達してきた「頭」という非自然原理の情報処理部門が乗っかったハイブリッド構造になっていると考えられる。

「頭」は、言語というツールを備えていて、かつコンピュータのような情報処理を行ない、物事のシミュレーションや比較などをする。この働きによって、分析や予測、反省や計画など、過去や未来のことを扱うのであるが、現在を捉えることは苦手である。また「頭」は、「~すべき」「~してはならない」といったmustやshouldの系列の言語を使い、事象をコントロールしようとする傾向が強い。そのため「頭」は、都合が悪くなると「心」との間にあるフタを一方的に閉めてしまうこともあるのだ。

一方の「心」は、「身体」と“一心同体”につながっており、両者が矛盾を来すことはない。常に「今・ここ」つまり現在に対して、直感的、即興的に反応する。そして「~したい」「~したくない」といったwant to系列の物言いをするが、「頭」のような理屈や理由づけをいちいち伴わないのが特徴である。

さて、アーレントが言っていた「一人のうちで二人」について、これらの前提を踏まえて考えてみよう。

つまり、一人の人間の中には「頭」という非自然原理の部分と、「心=身体」という自然原理の部分とがあって、そもそも二人いるようなものなのだ。つまり、元来人間は「一人であるが二人」なのである。

しかし、フタが閉じていると両者のやり取りがなくなって、「頭」は外との関係に目を奪われることになる。そして、「人とつながっているかどうか」「人にどう思われているか」といったことに執着せざるを得なくなってしまう。「孤立」や「孤絶」の説明で、「自分自身とつながっていない」と言っていたのは、そういう状態を指していたのである。

「孤独」の豊かさ・にぎやかさ

フタが開いていて「一人のうちで二人」となっている「孤独」とは、「孤立」などとは違って、にぎやかで豊かな状態である。人が何かに感動したり、新たな着想を得たり、丁寧に思索を深めたりするのも、全てこの「孤独」の状態の中で行なわれるのだ。

先ほどの図に示したように、「心=身体」に耳を傾けることは、すなわちその先に広がる大自然の摂理につながることでもある。そこには、人類共通の「地下水脈」と呼ぶべき豊かな英知も横たわっている。

上の図を参照していただきたい。掘り下げが十分でなければ、掘る場所によって「ここからは赤い水が出る」とか「いや、緑の水だ」といった見識の違いが生じてしまう。しかし、これを奥深く掘り進めていってみると、そこには、専門性や各人の個性などの違いを超えてくみ上げることのできる、共通した「真理や美」があるのだ。

私たちがインスピレーション(直感からのひらめき)と呼んでいるのは、自分の「頭」が計算してひねり出したものではなく、「心=身体」から不意に訪れた発想を指す。それは、「心=身体」の先に控える大自然の摂理が、この「地下水脈」に接続しているからこそ可能なことなのである。数々の素晴らしい芸術や文学も、そして深い思想や科学における発見や技術革新なども、全てこの経路を通ってくみ上げられた普遍的なものだったのだ。

このように「孤独」という状態は、表面的に他人とつながったり、既存の情報にアクセスしたりすることよりはるかに豊潤な、「地下水脈」への接続を可能にしてくれる。よって、決して心細いなどと恐れることはないのだ。

「空白の時間」がなければ人は「孤独」の状態に入ることができないし、「孤独」がなければ自分の中の豊かな対話も行なわれない。「空白の時間」を恐れ、必死にSNSなどで人とつながったとしても、自分自身とつながることができなければ、それはスマホに気を取られている「孤絶」に過ぎず、虚しさや寂しさは拭いきれない。虚しかったのは、「人とつながっていなかったから」ではなく、「自分自身とつながっていなかったから」なのである。

ほんの少し勇気を持って「気を紛らす」ことを減らして、あえて「空白の時間」を作ってみること。「孤独」を怖がることなく、自分の内に控えるもう一人の自分と静かに対話をしてみること。そうすれば、きっと自分らしい人生が動き始め、いつか「地下水脈」の英知とつながる至上の喜びをも経験するに違いない。

バナーイラスト=オカダ ミカ
文中図式提供=泉谷 閑示

シリーズ関連記事

第1回:「何をしたいのかわからない」という悩み(泉谷 閑示著)

この記事につけられたタグ:
  • [2018.03.23]

精神科医。作曲家。東北大学医学部卒業。財)神経研究所附属晴和病院等に勤務。99年に渡仏し、パリ・エコール・ノルマル音楽院に留学、パリ日本人学校教育相談員を務め帰国。2005年より精神療法専門のクリニックを開業(『泉谷クリニック』東京)。『「普通がいい」という病』、『仕事なんか生きがいにするな』など著書多数。

関連記事
このシリーズの他の記事

ピックアップ動画

最新の特集

バナーエリア2
  • nippon.comコラム
  • in the news
  • シンポジウム報告