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シリーズ 返還50年、小笠原諸島の今昔物語
日米2国間で揺れ動いた小笠原の歴史を語り継ぐ=大平京子・レーンス親子

ルディ・スフォルツア【Profile】

[2018.06.25]

米国から返還されて50年を迎える東京都・小笠原諸島。戦前から戦後の米軍統治時代、そして返還から現在に至るまでの島の歴史を、父島の「欧米系」島民、大平京子・レーンス親子の2世代にわたる体験から振り返る。

「ボニン」「小笠原」の2つの名前を持つ島々

2011年に世界自然遺産に登録されてから、「小笠原諸島(Ogasawara Islands)」という名前は日本だけではなく海外でも認知されるようになった。今ではこの島固有の自然、そしてクジラやイルカ、海鳥といった動物たちを見るために外国から訪れる人も増えた。しかし、「小笠原」は聞いたことがあっても、かつてここが「ボニン・アイランズ(Bonin Islands)」と呼ばれていたことを知っている人は多くないだろう。

最初の小笠原の定住者は日本人ではなく、ナサニエル・セーボレーという米国人らが率いる欧米諸国や太平洋の島出身者たちの一行であった。1830年、小笠原に入植した彼らは島を開拓し、その場所はやがて太平洋を航海する捕鯨船などにとって重要な補給地点となった。そして当時どの国にも属していなかったそれらの島々は、世界地図に「ボニン・アイランズ」と記されるようになった(日本語の「無人島(ぶにんしま)」で、Bunin→Boninと変化したのが由来といわれる)。

ボニン・アイランズの島民は西洋と太平洋、そして日本の生活様式や言葉が組み合わさった独自の文化を築いた。しかしわずか200年弱の間に島を巡る状況は激変する。

明治9年(1876年)、島は日本の領土と認められ、欧米系島民は日本人として帰化させられた。この時、島の名前はボニン・アイランズから小笠原諸島に変わった。やがて太平洋戦争が始まると島民は疎開させられ、終戦後の1946年に欧米系島民は帰島を許可されるも故郷は米国統治の島となっていた。そして68年6月、島は日本に返還された。

島を開拓した欧米諸国出身者などにルーツを持つ島民(島では「欧米系」と呼ばれている) も現在では少なくなってしまった。昔の島の文化や歴史も徐々に薄れつつある。しかし、島民の中には自分たちの物語を通してこの島のことを語り継ごうとしている人たちもいる。大平京子さん・レーンスさん親子がそうした欧米系島民だ。戦前・戦時中の島の暮らしを知る京子さん、米国統治時代に生まれたレーンスさんの2世代にわたる島の変遷をたどる。

大平京子:戦前から激変した米軍統治下の暮らし

大平京子さんは大正10年(1921年)父島に生まれ、イーディス・ワシントンと名付けられた。ワシントンとは最初に小笠原に定住した欧米系島民の名字で、京子さん、レーンスさんはその子孫にあたる。

生まれた時は「イーディス・ワシントン」だったと語る大平京子さん

「私が内地にいた時に島から電報が来て、「改名スル。名前知ラセ」って書いてあったの。『いろいろな手続きをする時、日本の名前にした方がいい』ってことで言われたと思うけど…。それで『名字は簡単な方がいいだろう』と、幾つかあった候補から “大平” にして、名前は自分で決めました」

どちらの名前がしっくりするかと尋ねると、「もうずっと両方で呼ばれてるからどっちでも全然気にならないですよ」と、笑いながら答える。

京子さんが生まれた頃の小笠原は、日本の生活様式が強かったようだ。

「私たちは日本語で話し、大人は仕事が終わると浴衣姿で町を歩いていましたよ。島の青年学校では東京から特別な先生がみえて、和裁・洋裁・手芸・家事を教えてくれました。だから布団や袴(はかま)なんかの作り方も習いましたよ。ありがたかったし、島はのんびりしていて楽しかったですね、あの頃は」

しかし戦争が始まると、他の島民と一緒に内地へと疎開させられた。

「島を離れて私たちはみんな練馬にあった軍事工場に送られました。そこでは鉄砲の薬莢(やっきょう)を作っていて、ちょうど1年そこにいましたね。社宅も与えられてみんな一緒だからそんなに寂しくはなかったです。でもつらいこともやっぱりありました。 だから戦争が終わって島に帰れると分かった時はうれしかったですよ」

戦後、1946年に小笠原に戻った時、島の様子は激変していたと言う。以前あった家などの建物はほとんど壊されて何も残っていなかった。生活の仕方も米国式に変わっていた。

「確かに以前とは違う感じだったけど、軍の人たちもいろいろと手伝ってくれたから不自由と感じることはなかったです。子供たちにも教育の機会を与えてくれたし、本当によくしてくれました。でもつらかったのは、昔の友達に会えなかったこと。手紙のやり取りもできなかったからそれだけは寂しかったですね」

古い写真を見ながら、戦前・戦時中の島の暮らしを語る京子さん

返還決まり「さぞや皆さんうれしかろ」

米国統治時代は欧米系島民と軍関係者以外、小笠原に近づくことは禁じられていた。また、内地から手紙を送るにしても番地などの住所が分からなかったので届けられなかったそうだ。戦前に島で一緒に暮らしていた友達と会えなかったのがとにかく寂しかった。だから小笠原が日本に返還されるとラジオで聞いた時は本当にうれしかったと京子さんは話す。

「またいつか友達に会いたいとずっと願っていました。だから小笠原が返還されるかもと聞き、その時のうれしさを便箋に箇条書きのようにして書いたの。島が返還される日まで、自分への慰めとしてずっとそれを持ち歩いていました。そしてある日、書いた言葉をそのまま歌に乗せました。それが今の “返還の歌” になったんです」

願い叶(かな)って返還くる
さぞや皆さんうれしかろ

タマナ茂れる浜辺に立ちて
昔懐(なつ)かし あの頃を

二十余年の月日は長し
共に老いても忘れずに

旅のつばめもいつかは帰る
恋し懐かし 故郷 (ふるさと)へ

「島が返還されて、昔の友達が島に帰ってきた時は本当にうれしかった。あんなにうれしいことはないですよ。本当に良かった」

島唄の名人でもある京子さんは、以後何度もこの歌を歌ってきた。

米国人の名で日本人として生まれ育ち、時代の変化に合わせて日本名に名前が変わった体験を経て、島が米国に統治された時に、自分の出自について悩むことはなかったのか。だが、本人はきっぱりと言う。

「私はこの島の人間」だと。

小笠原が返還された1968年6月26日、日の丸の小旗を自転車に付けた父島の子供たち(時事)

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  • [2018.06.25]

1981年東京生まれ。父はイタリア人。スイスの高校を卒業後、東京で大学に通う。紆余曲折を経て2012年に小笠原に移住。現在は父島に住み、日英翻訳や英会話を教える仕事をしている。16年、「小笠原の島民による、島民の目を通して見る小笠原諸島のローカル・フリーペーパーORB 」を創刊。現在は第3号まで発行されている。 

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