2回のお代替わりを見つめて

シリーズ・2回のお代替わりを見つめて(1)全国戦没者追悼式:国民に直接語る「不戦の誓い」

社会

来年4月末の天皇陛下ご退位を控えて、「平成最後の――」と言われる重要行事が続いている。30年ぶりとなる「日本国、国民統合の象徴」の交代を、前回の昭和から平成へのお代替わりを取材した経験を基に、連載で見つめていく。

象徴として重要な公的行為

昭和天皇も現陛下も、「象徴」として重要視されていた公的行為(※1)の一つは、全国戦没者追悼式への出席だったと思う。軍関係者約230万人、民間人約80万人、合わせて約310万人もの戦争犠牲者に、遺族と共に黙とうを捧げ、追悼と平和を祈るお言葉を述べられた。国民にとってもテレビなどを通して天皇、皇后両陛下のお姿を見て、天皇陛下の肉声を聞くことのできる「8月15日正午」は、日本にとって特別な時になっている。

73回目の終戦の日だった今年の8月15日は、さらに格別だった。84歳になられた現陛下にとっては、最後の全国戦没者追悼式への出席だったからだ。1989年の即位以来、皇后さまと休みなく出席され、今回がちょうど30回目。お二人とも小学生の時に疎開体験があり、戦争を知る世代だけに平和を祈念する気持ちは強く、戦没者への慰霊と追悼のため内外の訪問を重ねられてきた。

全国戦没者追悼式でのお言葉は基本的には昭和天皇を引き継ぎながらも、現陛下は戦後50年、70年などの機に時代に即して少しずつ筆を加えられていった。「歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」「さきの大戦に対する深い反省と共に」が追加された。

全国戦没者追悼式に臨まれる天皇、皇后両陛下=2018年8月15日、東京都千代田区(時事)

300字のお言葉の重み

そして、その集大成ともいえる今回、「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」との一節を加えられた。戦後から平成の時代になっても、その名にふさわしい戦争のない期間が73年続いていることの思いを表わされたのだろう。だが、長き平和は容易に達成できたわけではない。

昨年には北朝鮮が発射実験したミサイルが日本上空を通過するなど、平成で最も緊張する瞬間もあった。北朝鮮問題は最悪の事態を脱したと見られているものの、日本が今後も他国の争いに巻き込まれる可能性はゼロとは言えない。「戦争の惨禍が再び繰り返されぬこと」の願いを込めた300字足らずのお言葉は、今なお重みがある。

天皇陛下にいつも寄り添われる皇后さま

寄り添われた皇后さまの、もし陛下になにかあればお支え、ご助言するという覚悟も伝わってきた。和服にされているのは、6年前に陛下が心臓の手術を受けて以来、もし陛下がバランスを崩した時に洋装の婦人靴では支えづらいので、動きやすい草履を選んだからだ。3年前の追悼式で陛下がお言葉の順番を勘違いされそうになったこともあったが、式次第に影響することはなかった。今回も含め、毎回の追悼式で粛々とお務めを果されたのは、お年を召したお二人の支えあいによる成果である。

「全国戦没者之霊」の標柱を、両陛下は黙とうの前と、お言葉の後にしばし見つめられていた。そして、会場を退席する際、お二人は5000人を超える遺族席の方に何度も頭を下げ、お別れのあいさつをされた。遺族席からは両陛下に、ご臨席と、長年のお心配りに感謝する拍手が送られた。

全国戦没者追悼式で一礼される天皇、皇后両陛下(時事)

体力低下を押して出席された昭和天皇

陛下の足取りを見つめながら、30年前の1988年、「昭和最後の終戦の日」のことを思い出した。陛下のゆっくりと進む足取りが、昭和天皇の全国戦没者追悼式での時と少し似ていたからだろう。当時87歳だった昭和天皇は前年に腸の通過障害を取り除く手術を受けられた。体重は手術前より7キロも落ちて50キロそこそことなり、体力の低下は明らかだった。宮内庁には慎重論もあったが、天皇自ら「ぜひ出席したい」と強く希望して追悼式に臨まれた。

少しでも体のご負担を軽くするため、夏の静養先の御用邸がある栃木県・那須から政府専用ヘリコプターで帰京された。この年の夏、つまり昭和最後の夏は、今年の猛暑とは反対に冷夏で雨もたくさん降った。帰京は8月12日の予定だったが、時折、激しい雨が降る天候不良でヘリが飛行できず、1日遅れで皇居に戻られた。14日夕、昭和天皇は皇居吹上御所1階の書斎で、翌日の式で読むお言葉の練習をされた。これまで何十回と追悼式で読み上げたお言葉だが、ご自分が納得するまで、繰り返されていた。

全国戦没者追悼式に出席のため静養先の那須からヘリコプターで帰京し、タラップを降りられる昭和天皇=1988年8月13日、東京・港区の迎賓館前庭(時事)

そして当日、午前11時54分に日本武道館の式壇上に着席された。黙とうのため全国戦没者之霊の標柱の方に向かわれたが、足取りが慎重で重いこともあり、正午の時報が鳴ってもまだ壇上中央で、定位置の到着に遅れてしまった。昭和天皇は標柱前に立つと、会場の遺族約6400人らと共に黙とうを捧げられた。天皇のお体が3回ほど大きく揺れた。長く感じた1分間だった。前年まではお一人で標柱前に立たれたが、この時だけはもしもの時に備えて侍従長がそばに付き従った。

多くの国民・遺族を慰めたお言葉

続いてお言葉。「さきの大戦において、戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々やその遺族を思い、今もなお、胸がいたみます。――全国民とともに、我が国の発展と世界の平和を祈り、心から追悼の意を表します」。毎年ほぼ同じ内容だが、戦争を避けられず、あまりに多くの犠牲者を出してしまった無念さを抱き、不戦の誓いを新たにする昭和天皇のお言葉に、どれだけの国民・遺族が慰められ、平和の尊さを感じてきたことか。

全国戦没者追悼式でお言葉を述べられる昭和天皇=1988年8月15日、東京・千代田区の日本武道館(時事)

昭和天皇は、ご体調が良くないのは自覚されていたはずだ。それでも8月15日には、わが身に何があっても国民に直接訴えるのが、ご自分の務めと信じられていた。その原点となる43年前の昭和20年(1945年)、終戦を告げる玉音放送の時と同様に……。筆者は、退場される昭和天皇を日本武道館の会場で拝見しながら、そんなことを考え、胸が熱くなったのを思い出す。

昭和天皇が国民の前にお姿を見せたのはこれが最後となる。その1か月後、吐血し、倒れられた。最後の全国戦没者追悼式は、昭和天皇がまさに命を懸けて臨まれた最重要行事だった。

戦争を知らない世代への引き継ぎ

来年からの追悼式には皇太子ご夫妻が新天皇、新皇后として出席され、戦争体験のない世代に引き継がれる。戦争を直接知らない「象徴」には大きな課題ではあるが、現両陛下のように、雅子さまとご一緒に歳月をかけて模索を重ね、新しい時代の「終戦の日」がつくられていくことと願っている。

バナー写真:全国戦没者追悼式でお言葉を述べられる天皇陛下=2018年8月15日、東京都千代田区(時事)

(2018年8月21日脱稿)

(※1) ^ 憲法で明記された国事行為のほかに、天皇が象徴の地位に基づいて公的な立場でする行為。国事行為とは違い、内閣の助言と承認は必要としない。

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