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シリーズ 2回のお代替わりを見つめて
シリーズ・2回のお代替わりを見つめて(2)被災地訪問:国民と同じ目線でお見舞い

斉藤 勝久【Profile】

[2018.10.11]

地震や豪雨など、次々と襲ってくる自然災害の被災者をお見舞いするため、天皇陛下は皇后さまと各地を訪問されている。天皇自ら現地に入って亡くなった方々を悼み、被災者を慰め励ますことこそ、「国民の安寧と幸せを祈り、人々に寄り添う」国民統合の象徴としてのお務めと信じられているからである。

西日本豪雨の被災地を2週連続で訪問

日本列島は9月に入って早々に、強い台風21号、震度7の北海道地震に連続して襲われ、多くの犠牲者を出した。その2カ月前の西日本豪雨は、14府県で死者220人を超える甚大な災害となった。両陛下はこの「平成最悪の水害」の被災地の中で、特に犠牲者の多かった広島、岡山、愛媛の3県を、9月14日と21日に2週連続で訪問された。110人を超える最大の犠牲者を出した広島県の訪問は、悪天候のため3度(13日、14日、20日)延期となり、4度目で実現したが、高齢の両陛下には強行軍の日程だった。

お二人は、14日に川の堤防の決壊で2階まで浸水被害に遭った住宅が点在する岡山県倉敷市を訪問。そして21日は午前10時半ごろ、東京・羽田から特別機で出発し、松山空港から自衛隊のヘリコプターに乗り継いで、午後1時前、川が氾濫した愛媛県西予市へ。またヘリに乗り、瀬戸内海を渡って、土石流などで25人が犠牲となった広島県呉市に入り、仮設住宅に暮らす被災者ら80人を見舞われた。

西日本豪雨災害の被災者に声をかけられる天皇、皇后両陛下=2018年9月21日、広島県呉市の呉ポートピアパーク(時事)

自宅で首まで水につかったという70歳の女性に、陛下は「無事でよかったですね」と話された。皇后さまは赤ちゃんを抱いた若い母親に「よくお守りになりましたね」と声を掛けられた。そして、陛下は退室される前に「元気に過ごされるよう願っています」と被災者を励まされた。この後、お二人は再びヘリで瀬戸内海を渡って松山空港に戻り、特別機で午後7時ごろ、帰京された。

北海道地震の被災地も訪問

何度延期になっても被災地を見舞いたいという陛下のお気持ちは、ご自分が「天皇である来年4月までは、全身全霊をかけて象徴としての務めを果たす」という強い信念の表れと、筆者には感じられる。41人が犠牲となった北海道地震の被災地にも、両陛下は11月に訪問される。

平成3年の雲仙普賢岳噴火から始まり、阪神大震災、東日本大震災など大きな自然災害があるたびに、陛下はあまり時間をおかずに被災地入りしている。避難所で陛下が床にひざをつき、多くの被災者と同じ目線で話し合われる、天皇の新しい姿は「平成流」とも呼ばれた。お見舞い訪問を重ねるたびに陛下、皇室の存在感は増していった。

「被災者が希望を捨てることなく……」

東日本大震災の発生から5日後の2011年3月16日、陛下は異例のビデオ声明で直接、国民にお気持ちを述べられた。「被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」。原子力発電所事故もあり、あまりにも多くの犠牲者、避難者を出した国難に、国民が一つになって立ち向かおうと呼びかける熱いメッセージだった。そして両陛下は現地のお見舞いを、誰よりも多く繰り返された。

陛下は退位の意向をにじませた2016年8月の「象徴としてのお務めについてのお言葉」の中で、こう述べられている。「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じてきました」。天皇のお務めはいろいろあるが、体の衰えで「全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じて」いることも、退位をお考えになる要因になった。

父とバイニング夫人からの教え

陛下が今もなお、お見舞い訪問を続けられている原点は、二つの教えにあると思う。父、昭和天皇から学んだ「人のことを常に考えることと、人に言われたからするのではなく、自分で責任をもって事にあたること」(2014年12月の記者会見)。敗戦に続く占領下で、国民を慰め、励ますため、自らのご意思で「全国巡幸」を行った昭和天皇の教えが生きている。

そして、中学時代の米国人英語教師、バイニング夫人からの「お見舞いはご自分がしたいと思ったらすればよい。決して人に言われてするものではない」という教えである。陛下はこれらの教えを守りながら、災害などで悲しんでいる国民がいれば、「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添う」という行動を貫かれている。

昭和天皇重体で揺れた30年前の秋

昭和天皇が重体となった30年前の9月は、日本中が大きく動揺していた。1年前に腸を手術した昭和天皇が、1988年9月19日夜、就寝中に突然、大量吐血された。皇居にはご病状を気遣う多くの国民が訪れ、お見舞いの一般記帳所には約1キロメートルもの長い列ができた。

その中に、伊豆大島から駆け付けた東京・大島町の植村秀正町長の姿があった。伊豆大島は86年11月、三原山大噴火で溶岩が町の中心部に迫り、約1万人の島民や観光客の「全島避難」となった。深夜、全島民が何隻もの船に分乗して東京や静岡に避難する大作戦だった。1か月で帰島できたが、心配されていた昭和天皇は大島へのお見舞いを強く希望し、翌87年6月、滞在中の伊豆・下田の御用邸から初めてヘリコプターに乗って大島を訪問し、島民を励まされた。町役場では、昭和天皇が植村町長や職員に、犠牲者を出さずに全島避難の一大事をやりとげたおほめの言葉をかけられた。特に用意したものを読み上げたのではなく、「よくやってくれた」と労をねぎらうお気持ちをよどみなく話されたのを筆者は覚えている。

伊豆大島の三原山山頂口で「聖上臨幸之碑」前に立たれ、鈴木俊一東京都知事(左)の説明で視察される昭和天皇=1987年6月22日(時事)

昭和天皇は、「全島避難の苦労を少しでも共にしたい」とのご希望から、帰路は下田まで高速艇を利用された。多くの島民が日の丸の小旗を振って見送り、デッキの昭和天皇は飛ばされそうになるパナマ帽も気にせず、長い間手を振って別れを惜しまれていた。天皇の大島訪問は、観光に頼る大島の安全宣言となったと言われた。

皇太子時代から行われていた「平成流」

当時の皇太子(現陛下)夫妻が先述した全島避難の大島島民を見舞われるため、86年11月、都内の体育館を訪問された時、珍しい光景があった。皇太子さまが美智子さまと共に床にひざをついて、島民たちにお見舞いの言葉を掛け、話し込まれた。今にして思うと、「平成流」はすでに皇太子時代からあったといえよう。ひざをついてお話しするスタイルを、天皇になっても変えずに続け、貫き通されたのが現陛下の真骨頂である。大島島民へのお見舞いは、現陛下と昭和天皇の見事な連携で行われた。

三原山の噴火で避難した伊豆大島の島民に励ましの言葉を掛けられる、皇太子時代の天皇、皇后両陛下=1986年11月29日、東京都千代田区の区立総合体育館(時事)

現皇太子夫妻もおそろいでお見舞いに

両陛下が愛媛、広島を訪問された今年の9月21日、皇太子ご夫妻は都内の高齢者施設を訪問されていた。両陛下から引き継いだ「敬老の日」にちなんだお務めである。また、同26日にはお二人で、昨年7月の九州北部豪雨で最も被害の大きかった福岡県朝倉市の応急仮設住宅を訪れ、被災者を見舞われた。お二人はしゃがむように身をかがめてお年寄りの手を握り、励まされていた。

応急仮設住宅「林田団地」で、九州北部豪雨の被災者をお見舞いされる皇太子ご夫妻=2018年9月26日、福岡県朝倉市(時事)

来年の皇位継承を前に、皇太子さまと雅子さまがおそろいでの国民と交流や、お見舞い訪問の機会がだんだんと増えてきている。「平成流」に次ぐ新しいスタイルを、お二人はどう創られていくのだろうか。

(2018年9月28日 記)

バナー写真:東日本大震災で避難所となった千葉県旭市の海上公民館で被災者に声をかけられる天皇、皇后両陛下=2011年4月14日(時事)

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  • [2018.10.11]

ジャーナリスト。1951年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞社に入社後、社会部で司法を担当したほか、86年から89年まで宮内庁担当として「昭和の最後の日」や平成への代替わりを取材。医療部では著名人が自ら語る闘病記「一病息災」を連載した(医療・健康サイト「ヨミドクター」に収録)。2016年夏からフリーに。18年5月から、旧ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲをテーマにした連載「伝説のスパイの足跡を訪ねて」全6回をニッポンドットコムに掲載。

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