コラム:亜州・中国

コラム:亜州・中国(1)日本のシルクロード外交を考える

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21世紀は「亜州(アジア)の世紀」となるのか、後世の歴史家から「中国の世紀」と呼ばれるのか。世界の成長センターであるアジアを舞台に、中国の広域経済圏構想「一帯一路」や自由貿易協定(FTA)など経済統合の動きが加速している。日本経済にとって死活的な「亜州・中国」を主題にコラムを綴っていきたい。初回はユーラシア大陸の“ヘソ”に当たり、悠久の歴史を誇りながら、経済改革や環境問題が課題の中央アジアと日本との関係を考える。

中央アジアのウズベキスタンを初訪問

「青の都」や「イスラム世界の宝石」の異名を持つサマルカンド。中央アジアの砂漠の中で紀元前から繁栄したオアシス都市だ。シルクロードの交差点に位置し、数々の遺跡がある。とりわけレギスタン広場の青い空に映える光景は目を奪われるような迫力があった。

11月7日から約1週間、ウズベキスタンを初めて訪ねた。多治見の陶芸家、七代加藤幸兵衛氏(73)を団長とする関係者計11人による旅行に参加したのである。連日ほぼ晴天に恵まれ、抜けるような青空は、かつてチベットで見上げた蒼穹(そうきゅう)に酷似していた。

我々は首都タシケントから国内線で西方約1000キロの州都ウルゲンチに飛び、専用車(中国製大型バス、車内に洗面所装備)に乗り換えて古くからのオアシス都市、ヒヴァに向かった。ヒヴァには、城壁に囲まれたイチャン・カラ(内城)がほぼ中世の姿のまま残っている。

ヒヴァのイチャン・カラの遠景

ヒヴァに1泊して専用車で大河アムダリアやキジルクム砂漠を車窓から眺めながら、シルクロードの要衝だった古都ブハラに移動した。途中、アヤズ・カラ遺跡などに立ち寄り、ブハラまでは11時間近くかかった。ブハラには2泊、12世紀に造られたカラーン・ミナレット(光塔)や中央アジアに現存する最古のイスラム建築物、イスマイル・サマニ廟などを見て回った。ブハラから、サマルカンドまでは専用車で休憩などを含めると約9時間の道のりだった。

ブハラのカラーン・ミナレットの夜景

ブハラで写真撮影をするカップル

サマルカンドからタシケントに戻るのには新高速鉄道を利用した。約2時間の列車の旅は無料の軽食と飲み物も出て快適だった。ただ、乗車前には空港並みのセキュリティ検査があり、チケットにはパスポート番号、氏名、生年月日、国籍、性別が印字されていた。

東西文明の十字路に過酷な興亡の歴史

2000年以上の歴史を有し、昔から東西文明の十字路となったオアシス都市を擁するウズベキスタンは「二重内陸国」。カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンを含めた中央アジア5カ国中、人口が約3200万人と最も多い。国土の約6割は砂漠や草原で、面積は44万7400平方キロメートルと日本の約1.2倍だ。旧ソ連の解体で1991年、「ウズベキスタン共和国」として独立した。人口の約8割を占めるウズベク人をはじめタジク人、ロシア人、カザフ人、高麗人、ユダヤ人らによる多民族国家だ。世界遺産に登録されているサマルカンド、ブハラ、ヒヴァなど国内のオアシス都市は過酷な興亡の歴史をたどってきた。

紀元前4世紀、アレキサンダー大王は東方遠征の途中にサマルカンド(当時はマラカンダ)に侵攻、ヘレニズム文化が開花した。紀元前2世紀、漢の武帝の時代に西域に使者や遠征軍を派遣、長安からサマルカンド(中国語で康国)への「絹の道」が開かれていった。

サマルカンドはキャラバン(隊商)交易で活躍したイラン系のソグド人の都市として栄えたが、8世紀のアラブ軍の中央アジア遠征でブハラなどとともに征服されてしまう。宗教もイスラム教へと改宗され、中央アジアのイスラム化とトルコ化が進んだ。

13世紀になると、チンギス・ハン率いるモンゴル軍が中央アジアに侵攻、ブハラ、サマルカンドなどが徹底的に破壊された。14世紀後半になって英雄アムール・ティムールが登場、広大なティムール帝国を築き、首都サマルカンドを「青の都」に再建した。「チンギス・ハンが破壊し、ティムールは建設した」といわれる所以である。

16世紀初め、分裂していたティムール朝はトルコ系のウズベク人に滅ぼされた。19世紀後半、ロシアの中央アジア進出が始まり、ロシア革命は中央アジアにも波及、20世紀前半から現在のウズベキスタン地域を含めて旧ソ連に組み込まれていったのである。

「改革・開放」と観光誘致に動く

ウズベキスタンでは独立前から、サマルカンド生まれのカリモフ大統領が約27年にわたって君臨していたが、2016年9月2日、脳卒中のため急逝した。78歳だった。同年12月の大統領選挙を経て後を襲ったミルジヨエフ大統領(61)は、内政では通貨スムの複数為替レートの一本化と通貨切り下げ、外為規制の緩和など外資導入をにらんだ改革を断行した。外交では周辺国との関係を改善し、米国、韓国、中国などを訪問している。カリモフ時代の強権的で孤立的な政権運営から、経済の構造改革など「改革・開放」路線に舵を切ったわけだ。

18年2月には大統領令で、日本、韓国など7カ国からの30日間以内の滞在はビザ免除となった。一橋大学に留学し、流暢な日本語を操るアジス観光相は「観光立国」を目指している。イスラム圏にありながら、旧ソ連時代から飲酒には寛容で、ビールやワインも醸造している。現地の旅行社によると、今年は日本、フランス、ドイツからの観光客が急増している。

今回の旅行で、現代版シルクロードである幹線道路を20時間以上走ったが、舗装されていないところもあり、大型バスでもかなり揺れた。しかし、外国人観光客をもてなすソフト面の整備は進んでいる。ウズベキスタンの移動通信の普及率は60%程度だが、主な遺跡にはバーコード(QRコード)で説明を読み取れる案内板が設置され、主要ホテルではWi-Fiが使えた。店の看板などはキリル文字だけでなく、ラテン文字や英語表記が目立った。ブハラ、サマルカンドの土産物屋では「こんにちは」と声を掛けられ、英語もかなり通じた。

バーコード(QRコード)で説明を読み取れる遺跡の案内板=ブハラのイスマイル・サマニ廟

「一帯一路」は21世紀のグレート・ゲームか

日本は奈良の正倉院に象徴されるように、シルクロードの終着点である。中央アジアと遠く離れているものの、文化的な結びつきは強い。

今回の旅行で、ブハラからサマルカンドへ行く途中、焼き物の町ギジュドゥヴァンを訪ねた。加藤幸兵衛氏を出迎えたのは「CERAMICS」の看板を掲げた工房の6代目の陶芸家、アリシェール・ナズラエフ氏(66)。同氏は1999年に半年間、小松市に滞在、九谷焼の技術研修を受けており、日本語も少し話す。幸兵衛窯は文化初年(1804年)開窯。ナズラエフ氏の工房の初代は1790年生まれだった。双方とも200年以上の歴史を持つ。加藤氏は先代の父、卓男氏と古代ペルシャの陶器で金属光沢を放つラスター彩を復元したことで知られ、何回もイランを訪問するなどシルクロードの歴史に詳しい。ナズラエフ氏とは初対面ながら、陶芸をめぐって話が弾んだ。

工房で作業するナズラエフ氏の孫たち(左)は8代目となる

サマルカンドでは、手漉き紙の「KONI GHIL MEROS」工房を見学した。中国で105年に発明された紙の製法は朝鮮を通じ610年に日本に伝えられたが、サマルカンドには751年、捕虜となった唐軍の紙漉き職人から伝授された。桑の木を原料とした「シルクペーパー」は欧州などにも輸出されたが、ソ連体制下で途絶えた。1991年の独立後、伝統を取り戻したいとサマルカンドに工房が設立され、和紙の技法も取り入れて復活させた経緯がある。

サマルカンドの手漉き紙の工房

文化交流とは別に、日本は中央アジアにどうかかわるべきか。石油や天然ガス、金、ウラン、銅、レアメタル、石灰石などの地下資源が眠る中央アジアは、中国の習近平国家主席が唱える新シルクロード構想「一帯一路」の圏内にすっぽり入る。中国とロシアという大国に挟まれた地政学的にも極めて重要な地域だ。19世紀から20世紀初頭、英国とロシアは中央アジアで激しく覇権を争う「グレート・ゲーム」を繰り広げた。世界第2、第3の経済大国である中国と日本は「21世紀のグレート・ゲーム」を演じてはならない。むしろ北東アジア2大国は中央アジアの発展にこそ貢献すべきだろう。カザフスタンの製油所近代化プロジェクト案件で、日中の企業がコンソーシアムを組んで受注した最近の成功例もある。

安倍晋三首相が2018年10月下旬の訪中で、トランプ米政権が嫌う「『一帯一路』への協力」という直接的な表現は封印しながらも、中国首脳と「第三国市場での協力」で合意したことは時宜を得ている。日本政府は「中央アジア+日本」対話の枠組みで外交を展開しており、安倍首相は15年10月に中央アジア5カ国すべてを歴訪してもいる。18年11月26日には東京で、「中央アジア+日本」対話・第13回高級実務者会合(SOM)も開かれたばかりだ。

日本政府は17年12月、「一帯一路」への協力を後押しするため「第三国での日中民間経済協力について」と題する指針を策定した。省エネ・環境、産業高度化、アジア・欧州横断の物流の3本柱で、中央アジアにはぴったりだ。欧米より遥かに古い文明を有していた中央アジア諸国は澄んだ青空を守りながら、より透明性のある経済運営に努めて発展してほしい。

(写真は筆者撮影)

バナー写真:ウズベキスタン・サマルカンドのレギスタン広場=2018年11月

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