【書評】スマイリーが遺した言葉:ジョン・ル・カレ著『スパイたちの遺産』
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東ドイツ情報部対敵諜報課長のフィードラーは、囚われの身となった英国情報部員アレック・リーマスに冷たく言い放った。
「われわれの仕事は(略)すべて、全体が個人より重要だという理論に根拠をおいている。だからこそコミュニストも、情報機関をその腕の延長と考えている。きみの国の情報部にしたところで(略)個人の犠牲も、全体のために必要とあれば正当化されると考えるのはおなじことだ」(『寒い国から帰ってきたスパイ』より。以下『寒い国』)
スパイは目的のためなら手段を選ばずというわけで、東西の体制こそ違え行動原理は同じ。この会話の中に、著者ジョン・ル・カレの考える、スパイという職業の本質と避けがたい悲劇性とが込められていると思う。
なぜなら、スパイといえども自らの人間性を完璧に捨て去ることはできない。常に自己犠牲と感情との間に葛藤があり、その綻びから思わぬところで足をすくわれることになるからだ。
ル・カレが紡いできたスパイ小説群とも呼ぶべき作品の数々は、ストーリーテリングの巧みさもさることながら、それぞれの登場人物が抱える人生に対する深い洞察に満ち溢れている。そこがル・カレ作品の魅力ではなかろうかと考える。
それから30年以上の時を経て
ここに紹介する本作、『スパイたちの遺産』は、英国では2017年に刊行された。ロンドンの書店では、冒頭に紹介した『寒い国』の新装版と一緒に並べて売られ、たちまちベストセラーになっている。日本でも、時をおかず昨年秋に早川書房から翻訳が出た。
『寒い国』は1963年に出版された著者3作目にあたる出世作で、東西冷戦下、敵対する英国と東ドイツの情報部との暗闘を描き、いまなおスパイ小説の金字塔といわれるほど評価が高い。
さらに、著者の名を「スパイ小説の巨匠」として不動の地位に高めたのが、74年に出版された『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(以下『ティンカー、テイラー』)から続く『スクールボーイ閣下』『スマイリーと仲間たち』の3部作。『ティンカー、テイラー』は、古参の情報部員ジョージ・スマイリーが、サーカス(英国情報部)内に巣食うソビエト連邦に籠絡された二重スパイを炙り出していくという物語である。
そして、それから30年以上の時を経て、これら名作の続編として書かれたのが『スパイたちの遺産』となる。むろん本作だけでも十分楽しめるが、過去作品を未読の方には、やはり『寒い国』『ティンカー、テイラー』と順番に読むことを是非お薦めしたい。
なにしろ本作には、ファンにとってはお馴染みの人物が次々に登場するが、主人公はジョージ・スマイリーの愛弟子ともいうべき元英国情報部員のピーター・ギラム。敏腕でありながら女難の癖がある愛すべきスパイなのである。
ただし、時ははるかに流れ、「ベルリンの壁」が崩壊したことなどもはや歴史上の出来事。高齢となったギラムは情報部からとっくに引退し、故郷フランスの田舎で隠遁生活を送っている。
そのギラムに、現在の英国情報部の法務部から一通の手紙が届き、かつての古びたビクトリア様式の建築物から、いまや近代的なビルに移った本庁舎へと呼び出されることになる。これが発端。
「あなたがた罪深い世代」
物語は、おおむねギラムの一人称で進んでいくが、
「ケンブリッジ・サーカスからエンバンクメントに至る道のどこかで何かが死に絶えた(略)」(本作22頁)
と、悪い予感がした通り、若かりし頃の1960年初め、対東ドイツ敵対諜報で展開された<ウインドフォール>と呼ばれる作戦の失敗の責任を問われることになる。彼にすれば言いがかりとしか思えない。
ここで『寒い国』とつながってくるわけで、冒頭に紹介した東ドイツ情報部員のフィードラーや英国側ではアレック・リーマス、スマイリー、ギラムらがこの作戦に関わっていた。
なぜ、いまさら冷戦期の作戦が問題になるのか。それがなんと、この任務で犠牲になったスパイの遺族が、いまになって当時の情報部の責任を問うて提訴するというのだ。
法務部の弁護士はギラムに宣言する。
「昔の犯罪の責任のなすり合いが、いま大流行です。(略)清廉潔白な今日の世代対あなたがた罪深い世代。われわれの父親たちの罪を贖うのは誰か。たとえ当時は罪ではなかったとしても。(略)」(43頁)
失敗に終わったこの作戦のファイルは闇に葬り去られ、機密資料室にも残っていない。
というわけで、身内であるはずの法務部の弁護士らが、法廷対策として作戦内容を明らかにすべくギラムを尋問するに従い、過去に隠ぺいされた事実が次々と浮かび上がってくる。
作戦の全貌は。そして訴訟はどうなる?
興趣をそぐことになるので、これ以上、物語を紹介することはできないが、本作でも『寒い国』同様の東から西への脱出劇が描かれ、これこそまさにル・カレの真骨頂。その結末は衝撃的で、読了後、あなたは静かな興奮と満足感に満たされていることだろう。
「大切な仕事だと心から信じている」
こうした巻を措く能わずの緊迫したストーリー展開がひとつの読みどころなら、ル・カレがこの作品で読者に投げかけたテーマに思いを巡らすのも一興である。
『スパイたちの遺産』は齢86のル・カレにとって24作目、最晩年の作品といってよいだろう。ここで題材を再び冷戦期にもってきたのには、どうした意図があったのか。
私なりの感想は――。
物語は、さながらギラムの回顧録のように進んでいく。若き日の彼は、スマイリーにスパイとしての適性を見出され、こう口説かれる。
「どうやらきみは向いていそうだ。給料は高くないし、職歴が途切れることも多い。けれど、みなこれは大切な仕事だと心から信じている。目的を信じ、手段にあまりこだわらなければだが」(本作14頁)
冷戦期には愛国心や正義感の基準が明確だったが、現代になって仇となるのである。
私はギラムが法務部の弁護士につく次の悪態が気に入っている。
「わたしは笑いをもらし、老いた頭を振って、きみらいまどきの若者には、あの時代が実際にどうだったかなどわかるまい(略)」(34頁)
スパイではないかもしれないが、あなたがベテランの職業人であるなら、読後、ギラム同様にわが身を振り返ってみることだろう。
現在の価値観で過去を裁く。昨今、「コンプライアンス」「第三者委員会」「働き方改革」云々と、なりふり構わず働いてきた世代の、昔の仕事の流儀が否定されつつある。善であると信じてきたものが悪となる。これも時流と諦めるべきなのか。
最後の最後の場面。
「何かわたしを責めるつもりで来たんだろう、ピーター。当たりかな?」(327頁)
年老いたジョージ・スマイリーはやさしくピーター・ギラムに尋ねる。
『スパイたちの遺産』は、単にノスタルジックなだけの作品ではない。ル・カレは現代人に何を伝えたかったのか。
その答えはこの問いかけに続く、スマイリーが諭すようにギラムに遺した言葉の中にある。