【書評】名誉とは、何であるのか―(前編):ジャック・ヒギンズ著『鷲は舞い降りた[完全版]』

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戦況を挽回するために、宰相チャーチルを拉致すべし。ヒトラーの独断で決まった奇襲作戦が動き出した。計画の立案を委ねられたのは、ドイツ軍情報部(アプヴェール)のラードル中佐。実行部隊に選ばれたのは、激戦を潜り抜けてきた落下傘部隊の指揮官シュタイナ中佐と、これまた歴戦の部下たち。彼らは、チャーチルがお忍びで過ごす、英国東部の海岸に密かに舞い降りた——。その前編。

 本作は、スパイ情報小説のジャンルの人気投票で必ずベスト3に入る名作。同感である。著者ジャック・ヒギンズはこの作品を1975年に発表。たちまちベストセラーとなり、半世紀近くを経た今日でも読者を魅了し続けている。 

 私は20代の頃にこの小説に出会い、現代史をキャンバスに描かれたこの種の物語にのめりこむようになる。今回、この作品を紹介するにあたり、改めて読み返してみたが、50代を終えようとするのに、再び胸の内が熱くなってしまった。
 それは、なぜなのだろう。

ムッソリーニの救出劇

 さっそく、ストーリーを紹介しよう。
 発端は、ドイツ空軍の落下傘部隊による電撃的な奇襲作戦の成功だった。
 それは、逮捕監禁されていたイタリアの独裁者ムッソリーニを無傷で救出するというもの。

  1943年7月末に首相を解任されたムッソリーニは、イタリア中部の標高2000メートルを超えるグラン・サッソの山稜に建つホテルに幽閉されていた。
 同年9月8日、イタリアが連合国に無条件降伏。同盟国の離脱で欧州戦線の崩壊を恐れたヒトラーは、空軍とSS(親衛隊)の大尉オットー・スコルツェニイにムッソリーニの救出を命じる。

 山頂にあるホテルは警備が厳重で、陸路からでは難攻不落。そこでドイツが編み出したのは、落下傘兵をグライダーに載せてホテルを急襲するという大胆不敵な作戦だった。
 同年9月12日に作戦は決行された。
 不意をつかれたイタリア兵は、ほとんど抵抗することなく白旗をあげ、作戦に同行したスコルツェニイは、ムッソリーニを連れて凱旋帰国した。

 チャーチルを拉致せよ!

 この歴史的事実を踏まえて、物語は動き出す。
 東プロシアの森林地帯にあるヒトラーの東部戦線司令部「狼のねぐら」で、作戦会議が開かれていた。

 ヒトラー以下、参集したのは、当のムッソリーニのほか、宣伝相のヨーゼフ・ゲッペルス、SS長官のハインリヒ・ヒムラー、軍情報部(アプヴェール)長官のヴィルヘルム・カナリス提督だった。

 ナチスを敗走に導いた「史上最大の作戦」Dデイが1944年6月。この会議がもたれたのはその前年の19439月のことだ。
 その会議で、ヒトラーは怒りを爆発させた。
 グラン・サッソの奇襲はヒトラーの鶴の一声で実行され、奇跡的な成功をおさめただけに、怒りの矛先はカナリスに向けられた。
「きみと軍情報部の人間が、最近、どんな成果をあげているというのだ?」

 そしてヒトラーは、カナリス傘下の特殊部隊をやり玉にあげ、こう叫んだ。
「あれだけ優秀な人員、装備が揃っていたら、チャーチルをわたしのもとへ拉致してくれることだって可能なはずなのに、なにもしていないではないか」 

 カナリスは仰天して異を唱えようとしたが、ゲッペルスは迎合して拉致に賛同し、ヒムラーもためらうことなく同感と答える。
 ヒトラーはカナリスの肩を叩いて、にこやかにいった。
「手配したまえ、提督。さっそく、事を進めるのだ。なにか方法が見いだせるはずだ」

右目と左手を失った中佐

 歴史家が伝えるところ、海軍大将のカナリスは軍情報部を牛耳っていたが、ヒトラーの独裁体制に密かに反感を抱いていたという。内心では軽蔑していた節が窺われ、事実、大戦末期に持ちあがったヒトラー暗殺計画には、必ずといってよいほど、背後での関与が囁かれてもいた。

 ちなみに、1944年2月、カナリスは解任され、アプヴェールは解散。情報部はヒムラーの指揮下に置かれることになる。
 1945年4月、ドイツ敗戦の直前に、カナリスは絞首刑に処せられた。

 物語に戻れば、ヒトラーの無茶な指令を受けたカナリスは、ベルリンのアプヴェール本部に戻ると、腹心の部下であるマックス・ラードル中佐を呼んだ。

 本作で核となる登場人物のひとりである。
 年齢は30歳だが、それより老けてみえる。なぜなら、1941年の対ソ冬季戦で右目と左手を失い、戦傷で本国に送還されて以後は、ずっとカナリスの下で働いている。苛酷な戦場での負傷によって、医師からは「余命2年」と宣告されていた。

 彼がはじめてお目見えするシーンはこんな感じだ。

「入ってきた男は、閲兵場からそのままやってきたような、一点の非の打ちどころのない服装をしていた。山岳部隊の中佐で、ソビエト侵攻作戦の従軍章、銀の戦傷章をつけ、喉もとに騎士十字章を吊るしている。右目をおおっている眼帯までが、左手の黒い手袋と同じように、軍の制式であるような印象を与える。」

 これでわかる通り、彼の役どころは忠誠心の強い折り目正しい軍人で、責任感が強く、死を恐れていない。 

 カナリスには、チャーチル拉致など狂気の沙汰で、さらさら実行するつもりはなかった。しかし、ヒムラーが将来カナリスを陥れるため、この件を実行しなかったと追及の材料にする懸念がある。
 そこでカナリスはラードルに、実行の可能性をさぐる調査を命ずる。
「われわれがいかにも真剣に取り組んでいるように見えるもっともらしい長文の報告書を作成するのだ。」

「ムクドリ」がもたらした情報

 むろんラードル中佐はそのつもりでいた。
 しかし、イギリスに潜ませていたアプヴェールの女スパイ、ジョウアナ・グレイからもたらされた情報によって、荒唐無稽と思われていたチャーチル拉致作戦が、実現に向かって動き出す。

 彼女は、イギリス北東部のノーフォーク州にある、スタドリ・コンスタブルという寒村に住んでいる。60歳を超える未亡人だが、村人からは上流イギリス婦人として信頼されており、地元の国防婦人会員を務めている。

 しかし、英植民地の南アフリカ出身の彼女は過去に迫害を受けており、イギリスを憎悪している。そのため、暗号名「ムクドリ」として密かに活動し、彼女に好意を寄せる退役海軍中佐をたぶらかし、それとなく地元の航空部隊に関する情報を聞き出してはアプヴェールに送っていた。

 そんな女スパイから寄せられた驚愕の情報とは——
 11月6日の土曜日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが、ノーフォーク州の空軍爆撃隊基地を視察するという内容。
 問題はそのあとの日程だ。

 首相は、そのままロンドンには帰らず、スタドリ・コンスタブルの村から5マイルほど離れたサー・ヘンリー・ウィロビイの家で週末を過ごす予定になっている。これはあくまで私的な訪問で、詳細は秘密になっており、村人は誰ひとりその計画を知らされていない。
 退役海軍中佐のサー・ヘンリーは嬉しさのあまり、ドイツのスパイとは知らず、「ムクドリ」に打ち明けていたというわけなのだ。

 この地域は、人気のない広大な砂浜の海岸に面しており、村人はわずか。私的訪問というからには、仰々しい警備とはならないだろう。
 ラードル中佐は腹心の助手にこう言った。
「これ以上のことは望めないほど理想的な条件だ。落下傘部隊が降下するのに絶好の地域だし、問題の週末には、夜明け前に満潮になって、すべての痕跡を完全に洗い流してくれる」 

ポーランドの戦闘部隊を装う

 作戦概要はこうだ。
 チャーチルは、11月6日土曜午後にサー・ヘンリーの家に着いて一泊する。
 ドイツの落下傘部隊の降下地点の沿岸には、低空用レーダーがないので、高度600フィート以下なら探知されずに接近できる。

 海岸線には敵の侵入を阻むため地雷が敷設されているが、敷設したという見せかけだけの海岸もある。用意周到な「ムクドリ」は、バード・ウオッチングが趣味ということにして、退役海軍中佐からその場所を示す地図も入手していた。

 落下傘部隊は5日夜に降下。6日土曜、一日身をひそめ、夜間に作戦実行。10時から11時に、沖合で待機していた高速魚雷艇Eボートが部隊を回収する。問題は、ドイツ兵が一日、誰にも疑われることなく身をひそめていられるのか?

 妙案があった。この地域には各部隊の訓練施設として利用されている屋敷がある。イギリスだけでなく、アメリカやポーランド、チェコなど同盟軍の戦闘部隊が頻繁に演習を行っており、部隊の行動が人目についても、村人に不審がられる心配はない。ただし、外国部隊の場合、正規のイギリス人将校が付き添っている。

 落下傘部隊はポーランドの戦闘部隊を装うことにする。
 非常に困難が伴う今回の作戦で、指揮官にもとめられる必須の条件は、勇敢で卓越した才能の持ち主、そしてこれが肝心要だが、英語が話せるだけでなく「誰が見てもイギリス人に見える男」でなければならない。
 そんな男が、どこにいるのか?

 (後編へ続く)

 

鷲は舞い降りた[完全版]

ジャック・ヒギンズ(著) 菊池 光(翻訳)
発行:早川書房
ハヤカワ文庫 614ページ
ISBN 9784150408343

 

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