観光

2018/4/2

湯宿 さか本-坂本新一郎の世界

能登半島の奥地にひっそりとたたずむ宿。そこで出される料理は、旬をとらえた地のものを素材に、神のごとき素朴さをたたえる。簡素きわまる美しさの向こうには、波乱豊穣な主人の半生がある。

坂本新一郎

「湯宿 さか本」主人。
1954年、石川県生まれ。1974年、珠洲市の「坂本旅館」を継ぎ、「湯宿 さか本」を開業。

 

「ここは至らない、尽くせない宿なんです」

 玄関を開ける。ただただ、シーンとしている。サービス満載、至れり尽くせりのニッポンの旅館に慣れていると、その静けさにしばし戸惑う。

坂本新一郎(以下、坂本) うちはサービスはないし、仲居さんがお出迎えすることもなく、お客さんは明け方にニワトリの鳴き声でたたき起こされる。至らない、尽くせない宿なんです(笑)。

 もともとは父が「ひろやの湯」という湯治場を譲り受けたのが始まりです。姉が1歳の時、皮膚病がひどくなって、その湯治ということでここに来た。ここの湯は昔、田んぼのあぜ道に湧いていた「くすり水」を、近隣の人たちが沸かして使っていたもの。父と湯治場の主人との間で、「ここの湯、ええね」「ならば、買うてくれ」という話になり、旅館を始めることになったそうです。

 旅館といっても、昔の小学校の物置を移築した木造の二階家。父が亡くなった後は、母が細々と切り盛りをしていましたが、そのままでは立ち行かなくなり、44年前に僕が引き継ごうと決めました。それが20歳の時でした。

聖性が宿る「湯宿 さか本」の玄関

 掃き清められた玄関と廊下。その廊下の先に沈む闇。「さか本」の空間は、静けさの中に、いいようのない凄味が宿っている。

坂本 築100年ぐらいですか、なんて聞かれることがありますが、実は30年前に、まるっきり新築で建て増したものです。古く感じるのは、柱や廊下に黒漆を塗っているからでしょう。そう言うと、「ああ、輪島が近いからですね」と言われたりしますが、能登でも普通は建物に黒漆などは塗りません。

 自分が旅館を建て替える時、どうしてもお願いしたい建築家がいました。輪島に事務所を構える高木信治さんです。

 若いころ、輪島の町中をうろうろしていたら、夢に描いていた玄関、土間がそのままの旅館を見つけました。漆の使い方が独特で、宿の人に聞いたら、「高木さんという建築家の設計です」と。そのまま高木さんのところに押しかけて、「宿代を貸してください」と迫りました。高木さんはさぞ面食らったことと思いますが、僕の勢いに押されて、「はい」って貸してくださった。

 自分が宿を作る時は、絶対に高木さんに頼む、とその時に決めました。

玄関の長押には、庭の水仙がざっと活けられて到着は、鴨居にかけられた銅鑼で知らせる

玄関の土間に据えられた手水。この左には大竈が据えられていて、味噌作りなどに活躍する

 20代だった坂本が依頼をしてから、建築家が首を縦に振るまで、4年半の月日がかかったという。

坂本 高木さんは施主とともに建物を作る、というポリシーの方で、一緒に厨房に入ったり、旅をしたりしながら、毎週、夜中まで話し合いを重ねました。

 僕は高木さんから、五つの宿題を出されました。一つめは「家の周りの動・植物相を書きだすこと」。二つめは「航空写真を用意すること」。三つめは「周囲にどんなお祭りがあるか調べること」。四つめは「冬、雪が降った景色の中で、美しい家を見つけてくること」。

 最後が「嫁さんを連れてこい」というもので、これが長いこと、できんかった(笑)。

 結局、あきらめて、宿を建ててもらいましたが、僕はアホやから、「どうせやるなら『日本一小さい宿』を作ったる」って、7部屋あった旅館を3部屋にしてしまいました。

 坂本の許には美穂子という生涯の伴侶が訪れる。豪華・大型の温泉旅館が話題になっていた当時に、侘びた宿と、この土地を気に入って、大阪から何回も通い詰めていた美穂子は、坂本と感性を同じにする女性だった。

坂本 本当は旅館なんて継ぐ気はなかったんです。子どものころは、和菓子職人になりたかった。

 高校3年の春、クラブ活動でトランポリンをやっていたら、着地がまずかったんですね、首の骨を折りました。そのまま2年間、入院生活です。脊髄損傷ということで、命が危なかった。2年後にようやく高校には復学しましたが、半身不随になりました。

食い意地は父からの遺伝。太った寒雀を「うまそう」

 10代で五体満足という「普通」を打ち砕かれた坂本を、生きる方向に導いたのは、「食」への執念だった。

坂本 食い意地が張っているのは、親父からの遺伝です。脊髄損傷で入院していた時も、食うことばっかり考えていました。まるっきり動かない体で病室の窓から外を見ると、ぷっくり太った寒雀が群れて裸木にとまっている。それを見て、「うまそう」と思ったくらいだから(笑)。

 親父は料理上手でねえ。でも、おいしいものは独り占めして、子どもに分け与えることなんかしない人でした。ある時「今日はうまいもんを食わせてやる」と言って、ぶよぶよした塊を湯引いて、薄切りにしたものに、酢味噌を添えて出してくれました。それが本当においしかったんです。後で、普通は捨てるミズタコの頭だった、ということが分かりました。そのように、「捨てるもの」をおいしく活かす技を、僕は知らず知らずのうちに学んだと思っています。

 その父は、坂本が入院した年の暮に、見舞いから帰る車中で、突然亡くなる。坂本旅館はいよいよ先細っていく。高校を卒業した坂本は、母から「仕事を手伝いなさい」と言われても、とてもその気にはなれず、美大を受験して不合格。八方ふさがりの中で、料理の道に踏み出した。

坂本 まず金沢に出て、有名な料亭や、めぼしい店の門を叩きましたが、片っ端から断られました。「障害者はいらん」と、はっきり口にされたこともあります。それでも諦める気持ちはまったく起こりませんでした。

 そんな中、金沢の老舗ホテルのグランシェフが、「やる気があるなら、やってみろ」と拾ってくれました。彼はサイドビジネスでフランス料理の惣菜チェーン店を始めたところだったんです。和食ではなく、フランス料理でしたが、プロの世界を知りたい一心で飛び込みました。

 手加減は一切ありません。足手まといにならないように、シェフが料理を作る段取りを頭に叩き込み、手順を逆算して下働きに徹して、1日12時間は働きました。

 フランス料理の惣菜店での1年は、僕にとって「仕事」ではなく「奉公」でした。だから、最後の月の給料はお礼の気持ちで返上しました。惣菜店を辞める際に、グランシェフから「お前には夢がある。がんばれ」という手紙をいただきました。その封筒には、僕が返上した給料の2倍の額が入っていました。

「修業」は続く。次に門を叩いたのは、滋賀と京都の境にある「月心寺」。「庵主さん」と親しまれた村瀬明道尼が作る精進料理が、その評判を全国にとどろかせていた。明道尼は、39歳で交通事故に巻き込まれ、右半身不随になった身だった。

坂本 庵主さんがお作りになる「煮物」が、ずっとあこがれだったのです。師走の寒い時分にお寺まで押しかけて、2時間待って、ようやく中に入れていただきました。なるべく同情を買うように、高校3年で半身不随になったこと、その年に突然、父に死なれた身の上をお話しました。そうしたら、「あんたは甘い! 『一足す一は零』のあんたには教えられまへん!」と一喝されました。僕の下心を見透かしたんやろうね、すごい気迫でした。

 その明道尼からは、20年後に厨房に入る機会を与えられる。早朝から午餐が終わるまでの半日の間に見たことが、今も「煮物」を炊く時の基本になっている、と坂本は言う。

坂本 庵主さんの次に、「1日でもいいので、置いてください」と、鎌倉の辰巳芳子先生の許を訪ねました。いわずとしれた、料理研究の大御所です。我ながら懲りないし、本当に恐れ多い(笑)。

 辰巳先生からは「1日、2日じゃ勉強にならない。しばらく居候しなさい」という言葉をいただき、辰巳家の“まかない夫”を担当することになりました。ここで学んだことも大きかった。

 たとえば僕の家では毎年、大晦日に「ぶり大根」を食べます。こんなに大きな大根、見たことがないと、人が驚くほどに大根を厚く切ります。厚い大根は、ちょっとやそっとではよう煮えません。煮たら冷まして……の手順を3日間繰り返して、味をじっくりと染み込ませます。時間と向き合う根気が要るのです。

 ぶり大根から魚の臭みを取る方法はご存じですか?

 ぶりの臭みを取るために、普通は湯通しをします。ところが辰巳先生が指摘されたのは、よく洗ったぶりの全面に焼き目をつけるという、誰もやったことのないものでした。ぶりの生臭みは、与える熱を100度以上に上げないと取れないのです。また、炭化した部分があると、さらに生臭みはなくなります。そのような手順やコツを、惜しみなく伝授してくださるのが、辰巳先生でした。 

自身の料理は「煮物」に始まり、「煮物」に終わると、坂本は言う。「ふき、ぜんまい、こんにゃくのお煮しめ」大根の大きさに誰もが驚く、「日本一大きいぶり大根」。大晦日の恒例として、3日かけて味を染み込ませる。坂本の真骨頂の料理だ

塗りの椀に映えるごはんと味噌汁

 食への好奇心は、国内にとどまらなかった。1988年には、スペインへの興味がやみがたく、半年間、セビリアを拠点にアンダルシアを放浪。その後は、熱海の「蓬莱」など名旅館を手がけた往年の建築家、志水正弘から、「空間」と「もてなし」に関する薫陶を受けた。

坂本 志水先生は旅館を始めた当初から、ご夫妻でよくお泊りに来てくださいました。ごまかしのない方たちで、初めのころに、「あんたとこの布団の不清潔感は女郎部屋並み。一度お勉強にいらっしゃい」と、言われてしまいました。

 そういう志水先生のお家は、トタン葺きの簡素な家でね。でも家中、掃除が行き届いていて、生活臭がしない。泊めていただくと、布団の寝心地がすごくいいんです。先生に布団の作り方を聞いて、その足で京都の老舗の寝具店に行くと、敷布団1枚で150万円くらいかかると言われてしまいました。

 うちの朝食は、ご飯と味噌汁を塗りの椀によそってお出ししています。塗りものには朱と黒がありますが、その椀の色を揃えると美しい、と教えてくださったのも志水先生と奥様でした。志水先生は、もとは中部地区一の建設会社の御曹司だったけれど、一晩にして財産をなくす経験をされたそうです。ご夫妻からは、本当の贅沢とは何か、ということを教えていただいたと思います。

黒漆を塗った板張りの座敷には、炉と薪ストーブ掃き清められた縁側が、外気を呼び込む中庭に面した洗面所に、ガラスは嵌っておらず、外気がそのまま入ってくる

 坂本が師事した「ほんまもん」の人たちの迫力と、それを上回る坂本の負けん気。その積み重ねが、「さか本」の美の土台になっている。

坂本 「日本一小さい宿」を、家族で回している中で、「正しいこととは何か」ということは、ずっと考え続けています。一つの答えとして、「長く続くこと」が大切ではないか、と思います。環境に負荷をかけたら続かないし、僕たちが無理をしても続かん。

 地場でとれる魚や野菜、きのこなどは、1日に1〜3組のお客さんをお迎えして、ちょうど回っていく感じです。1月、2月の能登は寒くて、僕たちにお客さんを迎える気力がなくなるので、休む。

 スリッパはない、テレビはない、洗面所とトイレは共用。その洗面所は吹きさらしで、冬でも湯が出ない。接客はきわめてそっけない。好きな人は好きになってくれるし、二度と来たくない、という方もいます(笑)。

 ただ、日本のすべての宿が、データに基づいた「快適性」と「効率性」で運営されたら、きっとつまらんと思うのです。いろいろな宿があって、選択の自由があるからこそ面白い。

 うちは旅館じゃない。ここが好きだ、と言ってくださるお客さんの「別宅」なんです。それで僕らは管理人。管理人と思えば、到着した時にお出迎えがなくても、納得するでしょう(笑)。

「さか本」の食卓では、姿美しく握った焼むすびも定番。丹精を込めて炊いた米の味わいが、いつまでも心に残る雪の中にたたずむ「湯宿 さか本」

<情報>
湯宿 さか本

〒927-1216 石川県珠洲市上戸町寺社 
電話 (0766)82-0584
予約は電話のみ。
ウェブサイト  http://www.asahi-net.or.jp/~na9s-skmt/

取材・文:清野由美 撮影:猪俣博史