『浅草川大川端宮戸川』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第16回

歌川広重「名所江戸百景」では第53景となる『浅草川大川端宮戸川(あさくさがわ おおかわばた みやとがわ)』。夏のイベント「大山講」に出発する一団でにぎわう、隅田川を描いた一枚。

江戸時代に流行した夏の行楽「大山詣り」

題箋に書かれている「浅草川」「大川」「宮戸川」は、いずれも隅田川の別称である。この絵に登場するのは、両国から「大山詣り(おおやままいり)」に出掛ける人々だと言われている。

大山詣りとは、神奈川県伊勢原市にある霊山・大山(標高1252メートル)と大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)へ、主に旧暦627日から717日の夏山開きの期間に参詣すること。大山阿夫利神社と富士山本宮浅間大社の御祭神は父娘の関係にあるため、江戸時代には大山と富士山の両方に参拝する「両詣り」が流行した。

特に大山詣りは江戸から片道2~3日と手軽で、箱根の関所を越えないので手形などの必要もなかった。そのため、実際には道中の遊山が目当ての場合が多かったとされる。当時の大山は女人禁制の区域があり、男性だけの夏の行楽として職人や鳶(とび)の間で人気が高く、参拝のための団体「大山講」が数多く組まれたという。

両国の東詰で、水を浴びて身を清める「水垢離(みずごり)」を取ってから、出立するのが習わしだったようだ。多くの男たちが両国に集まって来るので、広重の絵に描かれているように大層にぎやかだっただろう。絵の左に描かれているのは、小さな御幣(細長い紙を折り、木の棒にはさんで垂らした神具)をたくさん刺した梵天(ぼんてん)というもの。この御幣を道中で配りながら、大山を目指したという

写真は、水上バスの甲板から撮影した。夏休み時期だったので、平日にもかかわらず家族連れの観光客が多く、夏の渡し舟でにぎわった往時がしのばれた。

●周辺情報
両国

江戸時代初期に、隅田川に2番目に架けられた両国橋にちなんだ地名である。隅田川の西が武蔵、東が下総(しもうさ)の国だったので、両方の国をまたぐということから両国橋となったという。

現在、両国の地名や駅は橋の東側にのみに残っているが、元々は西詰(現 東日本橋)を両国、東詰は「向う両国(むこうりょうごく)」と呼んだそうだ。明暦の大火(1657年)後、橋の西詰には火よけ地として「両国広小路」が設けられ、よしず張りの仮設の見せ物小屋や飲食店が立ち並び、江戸一番の繁華街になったという。

現在、両国橋の西詰はオフィス街だが、東詰は回向院、国技館、江戸東京博物館、墨田北斎美術館などがあり、江戸風情を楽しめる街となっている。

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」――広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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