『神田紺屋町』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第20回

歌川広重「名所江戸百景」では第75景となる『神田紺屋町(こんやちょう)』。「場違い」という言葉が生んだ粋な場所で描かれた1枚。

江戸の流行が感じられた染め物の町

今でも町名が残る神田紺屋町。江戸時代初期より藍で木綿を染める紺屋が軒を連ねていたのが町名の由来となった。晴天の日に晒(さら)されていた反物が幟(のぼり)のように美しく、それが連なる光景は広重の時代には有名だったらしい。

この町で染められた反物の多くは、粋な浴衣や手拭いになったことから、「紺屋町へ行けば流行りが分かる」と言われたそうだ。品質の高さで人気が高く、この町以外で染められた藍染めを「場違い」と呼んだことが、現在も使われる言葉の「場違い」の発祥だという。

元絵の右側にある藍染めの柄は、広重の創作。「魚」の文字は江戸百景の版元である下谷の魚屋栄吉(ととや・えいきち)の印、ひし形の紋はカタカナの「ヒロ」をかたどった広重自身の替紋(かえもん)だ。粋な反物に、版元と自分の宣伝を埋め込んであるという粋な演出である。

反物を晒した光景は明治以降も続き、神田育ちの友人の話では、昭和40年代中頃まで見られたという。しかし、現在の紺屋町を訪ねると、大小のビルが建ち並び、染物屋らしき家も反物も全く見当たらない。昭和通りにある紺屋町交差点付近から富士山の方角を眺めたとき、大きなビルの工事用養生シートが風で畝(うね)っていた。これを反物に見立てて撮影し、作品とした。

●関連情報

神田(神保町、秋葉原)

現在の大伝馬本町通りから北、蔵前橋通りの南側の広い地域が、江戸時代には神田と言われていた。東西に流れる神田川を境に、南は内神田、北は外神田と呼ばれ、内神田の西部には武家屋敷、内神田の東部と外神田には町家が集中していた。

明治以降、内神田西部の大名屋敷跡に多くの大学が創立したため、神保町には古書店街が形成された。駿河台から神保町にかけて、楽器店やスポーツ用品店が多いのも、学生からの需要があったために増えたのだろう。

明治初期、外神田地域にあった神田花岡町には火よ除け地があり、火伏(ひぶ)せの神・秋葉大権現を祀(まつ)った鎮火社(通称:秋葉社)が建立された。そのため、「秋葉の原」から「秋葉原」と呼ばれるようになり、戦後の闇市から電気街に発展し、今日の「AKIBA」へとつながるのである。

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」――広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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