『霞かせき』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第27回

歌川広重「名所江戸百景」では第2景となる『霞かせき(かすみがせき)』。現在は官庁街の霞が関だが、江戸時代には海が望める大名屋敷街であった。

大名屋敷の門前に描かれた正月の風物詩たち

霞が関の地名は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折、蝦夷(えぞ)の襲撃に備えて、湾からの雲霧が漂うこの地に関を築いたのが由来だという。徳川家康が江戸に入府した時(1590年)には、日比谷まで江戸湾が広がっていたそうなので、それ以前は霞が関の下が海辺だったことは間違いなさそうだ。

広重の時代には、右側にある福岡藩黒田家の上屋敷(現・外務省)と左側の広島藩浅野家の上屋敷(現・中央合同庁舎2号館、3号館)の間を通る坂を霞が関と呼んでいたことが古地図などからうかがえる。元絵では、黒田家の門前に大きな門松が飾られ、中央の空には名所江戸百景の版元・魚屋栄吉の「魚」の文字が書かれた凧(たこ)が揚がる。通りの真ん中を歩くのは太神楽(だいかぐら)の集団、左にはそれを眺める三河万歳(まんざい)も登場し、なんとも正月らしい光景だ。

写真は、私が名所江戸百景の撮影を始めた初期の作品である。元絵の霞が関の坂ではなく、1本南側の汐見坂で撮影した。江戸時代は黒田家上屋敷の裏にあたり、「裏霞が関」と呼ばれた場所だそうだ。坂の上に広がる台地や、銀座まで見通せる奥行き感、坂の傾斜など、いずれも汐見坂の方が元絵の面影を残しているので、この写真を作品とした。

●関連情報

広重が描いた正月の風景

現在、1年で最も日本の伝統的な雰囲気を感じられるのは正月ではないだろうか。かつて凧は男子の健やかな成長を願う縁起物とされ、年末に贈られたという。今の都心では凧揚げができる場所は少なくなったが、それでも正月の遊びとして受け継がれている。

元絵と共通点が多いので、広重が正月を描いた他の一枚も紹介したい。冨士三十六景の『東都駿河町(とうとするがちょう)』である。駿河町は今の日本橋室町で、大きな門松が飾られるのは江戸時代の豪商・越後屋である。正月に家へ迎えて祭る歳神(としがみ)さまが、迷わずに家に入ってこられるように飾ったのが門松の始まりという。江戸時代の大名屋敷や越後屋のような大店では、松に竹を合わせた巨大なものを立てていたようだ。現代は形が変わり、短く切った3本の竹をまとめ、それに松を飾り付けた門松が主流である。

こちらの絵に登場するのも、右が太神楽、中央が三河万歳である。左には三味線を持つ鳥追(とりおい)の姿も見える。太神楽は獅子舞や傘を使った曲芸などを披露し、三河万歳は扇子を持った太夫(たゆう)と鼓を打つ才蔵(さいぞう)が祝言を述べ、いずれも正月には武家屋敷や商家を巡る門付芸だ。現在、テレビの正月番組で芸人がおめでたい芸をするのは、彼らの名残なのかもしれない。

冨士三十六景『東都駿河町』 国立国会図書館所蔵

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」――広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら

観光 東京 浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」 浮世絵 千代田区 正月