『外桜田弁慶堀糀町』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第47回

歌川広重「名所江戸百景」では第66景となる『外桜田弁慶堀糀町』。現在は国の主要施設が立ち並ぶ、桜田門から半蔵門に至る江戸城内堀付近を描いた一枚である。

広重だから描けた鳥の目線

広重の絵は、江戸城の桜田門付近から糀町(こうじまち、現・千代田区麹町)付近までを鳥瞰(ちょうかん)で描いている。今は「桜田堀」として知られる桜田門から半蔵門にかけての内堀は、江戸時代には「弁慶堀」と呼ばれていた。江戸城の築城で活躍した京の大工・弁慶小左衛門が、この堀の縄張りをしたことに由来するという。

この堀は江戸城南西側に位置し、東側の堀とは違って高い石垣が築かれていない。築城の際、武蔵野台地の地形を生かし、掘削したことがうかがえる。

堀の外側は、「外桜田」と呼ばれた地域だ。左上の立派な赤門の屋敷は、井伊掃部頭(かもんのかみ)の彦根藩上屋敷である。門の手前には、3連のつるべが下がった大きな井戸が見える。名水として評判だった「桜の井戸」で、水量も豊富なため、往来する人々にも提供していたという。彦根藩邸の奥には三河田原藩上屋敷(現・最高裁判所付近)、播磨明石藩上屋敷(現・国立劇場付近)と続き、右の奥には火の見櫓(やぐら)が小さく描かれている。

この櫓は、糀町の定火消御役屋敷のものだ。広重の絵には、火の見櫓がしっかりと描かれていることが多い。絵師の仕事に専念するまで、八代洲河岸(やよすがし、馬場先門付近)の定火消御役屋敷で同心を務めていたので、火の見櫓には特別な思い入れがあったのだろう。

広重の視点となるであろう場所に脚立を置き、約4.5メートルの高さから写真を撮った。しかし、撮影場所から右奥に見えるビルまでは、直線距離で約500メートルもある。その高さからでは景色は見下ろす感じにならず、奥の方まで見渡せる元絵のような鳥瞰にはならない。しかも広重は縦の構図に合わせるため、かなりのデフォルメを施したようだ。デジタル処理で画像を縦方向に伸ばしてみると、江戸城側の斜面が切り立ち、元絵の印象に近くなったので作品とした。高いビルなどない時代に生きた広重が鳥のような目線の描写を得意とするのは、火の見櫓に上れる特別な仕事をしていたからではないかと考える。それにデフォルメを加える名人芸を再現するため、今回も悩まされたのだ。

関連情報

江戸城の堀と大名屋敷

江戸城の堀は基本的に本丸から、らせん状に外へ向かって伸びている。内堀の中は御城内で、内堀と外堀の間に武家の屋敷が立ち並んだ。

大手門に近い内桜田(現・皇居外苑)から外桜田にかけては、大名の上屋敷が並んでいた。半蔵門から四谷に至る甲州街道沿いには町屋が軒を連ねるが、その北の一番町から、筋違御門(現・万世橋駅跡付近)にかけては旗本、御家人の屋敷を中心とした武家屋敷街が形成されていた。その外側が、町人が暮らす町家地域となる。御三家や外様大藩の加賀前田家、奥州伊達家、薩摩島津家、筑後久留米有馬家などは、外堀の外にも広大な上屋敷を構えていた。

明治維新後、幕府からの拝領地だった大名の上屋敷は、ほとんどが政府に接収された。そこに官庁や国の施設が置かれたため、霞ヶ関や永田町が日本の中枢の地となった。井伊家の上屋敷も、弾正台、陸軍省参謀本部などに利用された。現在、その大部分は、憲政記念館や三権分立の時計塔などがある「国会前庭(ぜんてい)」という公園になっている。敷地内には「井伊掃部頭邸跡」の碑があり、その横には元絵に描かれた「桜の井戸」が移設されている。

1859年出版の安政改正御江戸大絵図(国会図書館蔵)を使い、江戸城の内堀と外堀、周辺地域を色分けした。江戸の街が、らせん状に広がっていることが分かる
1859年出版の安政改正御江戸大絵図(国会図書館蔵)を使い、江戸城の内堀と外堀、周辺地域を色分けした。江戸の街が、らせん状に広がっていることが分かる

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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