『四ツ谷内藤新宿』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第52回

歌川広重「名所江戸百景」では第86景となる『四ツ谷内藤新宿』。宿場町の朝の情景を描いた遊び心たっぷりの傑作である。

流行歌を斬新な構図で表現した粋な名画

『名所江戸百景』の中で、「最も汚い絵」といわれる一枚である。馬の尻を大きく描き、足元には馬糞(ばふん)まで落ちている。とはいえ、手前の馬の後ろ姿を枠に、縦3分の2まで地面を描いて奥行き感を出す、広重ならではの大胆な構図である。

広重の時代、甲州街道の最初の宿場「内藤新宿」は、旅人が休息をとるだけでなく、物や情報、文化が集まる場所で、非公認の遊郭「岡場所」としてもにぎわった。表立って「遊女」とは呼べない岡場所では、給仕をする飯盛女(めしもりおんな)という名目で私娼(ししょう)を置いていた。当時は幕府も黙認していて、内藤新宿の飯盛女の数は150人までと決められていたという。

江戸時代後期に流行歌となった潮来節(いたこぶし)の中に、「潮来出島の 真菰(まこも)の中に あやめ咲くとは しおらしや」という一節がある。その替え歌で「四谷新宿 馬糞(まぐそ)の中で あやめ咲くとは しおらしや」という歌が江戸ではやったそうだ。道に散らばる「まぐそ」を岡場所にあふれる男たち、「あやめ」を飯盛女にたとえているらしい。この絵の発売当時、絵草紙屋の店先で、この歌を口ずさみながら絵を買う客の姿が目に浮かぶ。

江戸の物流は水運が盛んであったが、内藤新宿より西には荷船が往来できる河川や掘割はなかった。甲州街道や成木街道(現・青梅街道)を通って江戸に出入りする物資は陸運となるので、内藤新宿には荷馬が多かったことがうかがえる。

元絵は、現在の新宿2丁目にあたる内藤新宿仲町辺りで、日が昇る東側、四谷に向かって描いた秋の景とされる。店の者にあいさつをする身軽な格好の男は、明るい空に向かって歩き出しているので、江戸の街中から遊びに来て泊まったのだろう。手前に歩いて来る旅支度の男は、甲州へ旅立つ前に1泊したのか、「あやめ」に見送られている。まきを積んで江戸へ向かう馬なども描かれ、活気ある朝の宿場町の雰囲気が伝わる一枚だ。

写真は平日の夜明け頃、新宿2丁目東交差点付近で撮影した。人影はまばらだが、朝帰りの酔客と早朝出勤のサラリーマンの姿が混在し、歩道には回収を待つゴミが山積みなので、元絵の雰囲気と重なる。現在の新宿に馬はいないが、荷馬をほうふつとさせる、大きなカゴを積んだスクーターを見つけた。しゃがみこんでローアングル撮影すると、左の建物の遠近感が元絵に近くなったので作品とした。

●関連情報

新宿1~3丁目、内藤町

広重の時代、日本橋を起点とする五街道の初めの宿場は、東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、中山道の板橋宿、途中まで同じ道を使う日光・奥州街道の千住宿の4つ。江戸四宿(ししゅく)と呼ばれ、いずれもにぎわったという。

17世紀初頭に江戸幕府が五街道を整備した当初は、甲州街道の一つ目の宿場は高井戸宿だった。起点の日本橋から品川宿や千住宿、板橋宿までは2里程度(約8キロ)の距離なのに、高井戸は4里(約16キロ)と少し離れていた。1697(元禄10)年に浅草の商人たちが、日本橋と高井戸の間に宿場を開設したいと幕府に願い出る。幕府は上納金を条件に許可し、宿場用地として信州高遠藩主の内藤家などに屋敷の一部を返上させた。宿場町として整備されたのは、甲州街道と成木街道の分岐点「新宿追分」付近から、甲州街道の江戸の出入り口だった四谷大木戸付近まで。内藤家屋敷の周辺に新たな宿場をつくったことから、「内藤新宿」と名付けられた。

浅草商人の読み通り、内藤新宿には旅籠(はたご)や茶屋が増え、岡場所としてもにぎわいをみせた。質素倹約を励行する享保の改革が進む1718(享保3)年に1度廃止されたが、1772(明和9)年に再開するとすぐに活気を取り戻す。江戸四宿で品川に次ぐにぎわいは、明治維新まで続いたという。

現在、新宿一丁目交差点にある四谷区民センターの敷地には、四谷大木戸跡と内藤新宿開設三百年記念の石碑が立つ。その西側、新宿1丁目、2丁目、3丁目の旧甲州街道(新宿通り)沿いに内藤新宿は続いていた。オフィスビルが密集する1丁目は内藤新宿の下町、LGBTタウンとして有名で飲食店が多い2丁目が仲町、百貨店など商業施設の立ち並ぶ3丁目が上町と呼ばれた。内藤家の屋敷跡は新宿御苑となり、その敷地の大部分と周辺には「内藤町」という地名が残る。新宿駅は利用者数世界一を誇り、その礎を築いた浅草商人たちの先見の明には驚かされる。

江戸切絵図(文久2年改正 尾張屋板)内藤新宿千駄ヶ谷絵図より(国会図書館蔵)。四谷大木戸から角筈(つのはず)十二社権現までを切り抜いたもの
江戸切絵図(文久2年改正 尾張屋板)内藤新宿千駄ヶ谷絵図より(国会図書館蔵)。四谷大木戸から角筈(つのはず)十二社権現までを切り抜いたもの

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら


観光 東京 浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」 関東 浮世絵 新宿区 宿場