『深川八まん山ひらき』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第65回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第59景となる「深川八まん山ひらき」。富岡八幡宮と共に江戸っ子に愛された、永代寺庭園の特別公開を描いた一枚である。

江戸時代に隆盛を極めた別当寺の林泉

「深川八まん」とは、富岡八幡宮(江東区富岡)のこと。第43回『深川萬年橋』で紹介した江戸三大祭りの深川祭を執り行う江戸屈指の神社で、「深川の八幡さま」と親しまれた。画題には「山ひらき」とあるが、ここでいう山とは、山号を持つ寺院を指す。神仏習合の江戸時代、神社には管理運営を担当する別当寺を併設していたので、1627(寛永4)年の八幡宮創建の際に、真言宗の永代寺も建立された。

永代寺は深川八幡の西側にあり、徳川将軍家の庇護もあって広大な寺領を所有していた。池や築山などを配した庭園を「林泉(りんせん)」と呼び、江戸時代には立派な寺の多くが敷地内に設けていたという。永代寺の林泉は通常見物できなかったが、真言宗開祖・弘法大師(空海)の命日の法会「御影供(みえく)」が行われる旧暦3月21日から、「山開き」と称して一般開放した。期間は『江戸名所図会』(1834-36)には3月28日までと、『東都歳時記』(1839年刊)では4月15日までとあり、「参詣者の多くは山開き目当てで、御影供のことは知らない」といった記述が残る。徳川家が信奉した真言宗の一大行事より、江戸っ子にとっては永代寺の山開きの方が有名だったようだ。

旧暦3月は春に当たるが、山開き前や期間中に立夏を迎える年もあるためか、この絵は夏の景に分類される。広重は、この寺に多くの人が訪れる様子を描いている。広い池のほとりや「甲(かぶと)山」と呼ばれた築山には、深紅のツツジ、薄紅色のハナカイドウ、純白はコブシであろうか、いずれも美しく咲き誇っている。山開きと知って駆けつけた風流を好む江戸っ子たちが、池端で「いやぁ、見事だねぇ」などと話しながら、林泉の散策を楽しむ様子が思い浮かぶ。

写真は、2018年の旧暦3月21日にあたる日に撮影した。現在の富岡八幡宮の西側、江戸時代に永代寺の庭園があった場所は、ほとんどが深川公園になっている。かつての林泉のような空間の広がりを感じるのだが、池や築山もなく、その時期には若干のツツジ以外、咲く花も少ない。せめて、池だけでもあれば雰囲気が出せると思い、八幡宮の本殿東にある弁天池でカメラを構えた。池に架かる橋の欄干の色が、真紅のツツジをほうふつとさせるので作品とした。

●関連情報

永代寺 成田山東京別院 深川不動堂

徳川家康が江戸へ入府する以前、深川一帯には湿地が広がり、いくつかの島が浮かんでいた。その一つが、永代島である。深川が16世紀末頃から埋め立てられたことや、その後の発展、深川祭については『深川萬年橋』をご覧いただきたい。

徳川家光治世の1628(寛永5)年、長盛法印という僧が永代島に八幡宮と永代寺を創建し、寺社を合わせた敷地は2万2000坪を超えたと伝わる。長盛は永代寺の初代住職となり、現在の駅名や住所に「門前仲町」が使われるように、付近は門前町として栄えた。しかし、『江戸名所図会』では永代寺を「深川八幡宮の別当」と紹介し、名所江戸百景は「深川八まん山ひらき」の画題を付けた。江戸っ子たちの信仰の心は、永代寺ではなく、深川八幡に向いていたのだと想像できる。

『江戸名所図会』(国会図書館蔵)の富岡八幡宮。6ページに渡るパノラマで描かれているが、そのうちの西側3枚を並べた。右上が八幡宮本社で、中央から左ページにかけて永代寺の林泉が広がる
『江戸名所図会』(国会図書館蔵)の富岡八幡宮。6ページに渡るパノラマで描かれているが、そのうちの西側3枚を並べた。右上が八幡宮本社で、中央から左ページにかけて永代寺の林泉が広がる

永代寺は山開きの他にも、寺独自のイベントを開催した。1703(元禄16)年には、同じ真言宗の成田山新勝寺から、本尊・不動明王像を運んで出開帳(でかいちょう)を行っている。出開帳とは、高名な寺院が持つ秘仏を、別の土地に運んで特別展示するもので、拝観客とさい銭が多く集まる江戸では頻繁に開催された。歌舞伎の成田屋・市川團十郎家との縁もあり、成田不動の出開帳は人気が高く、永代寺では11回も開催している。

明治新政府が発した神仏分離令により、富岡八幡宮はそのまま残ったが、永代寺は廃寺となる。林泉を含む広い敷地は1873(明治6)年、上野や芝、浅草、飛鳥山と共に日本最初の公園に指定され、深川公園となった。実は、この年にも成田不動の出開帳があったそうだ。江戸っ子の不動尊信仰は明治時代になってもあつく、東京府はゆかりの地である深川公園の一部を提供し、成田不動尊の分霊を祀る深川不動堂が1881(明治14)年に完成した。東京大空襲で深川かいわいの建築物の多くが焼失し、1951(昭和26)年に千葉・印旛沼の龍腹寺にあった地蔵堂を移設して本堂とした。2011(平成23)年にモダンな新しい本堂ができたが、旧本堂には高さ5メートルを超える「おねがい不動尊」が安置され、参詣する人が後を絶たない。

一方、廃寺になった永代寺も、寺内にあった塔頭(たっちゅう)の吉祥院が名を継ぎ、1896(明治29)年に再興した。現在も門前仲町駅近くには「成田山東京別院 深川不動堂」と「大栄山金剛身院 永代寺」が残り、富岡八幡宮参拝の際に立ち寄れる下町散策スポットとなっている。

下町の門前町らしい雰囲気を今も残す「深川人情ご利益通り」。正面に見えるのが深川不動堂・旧本堂(手前)と内仏殿(奥)
下町の門前町らしい雰囲気を今も残す「深川人情ご利益通り」。正面に見えるのが深川不動堂・旧本堂(手前)と内仏殿(奥)

こちらは深川公園で撮影した写真を作品風に仕上げたもの。江戸時代の風景を思い描きながら名所を散策し、試行錯誤しながら作品作りをするのが楽しい
こちらは深川公園で撮影した写真を作品風に仕上げたもの。江戸時代の風景を思い描きながら名所を散策し、試行錯誤しながら作品作りをするのが楽しい

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら


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