『糀町一丁目山王祭ねり込』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第66回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第66景となる「糀町一丁目山王祭ねり込(こうじまちいっちょうめさんのうまつりねりこみ)」。将軍も上覧した「天下祭り」が、江戸城になだれ込む場面を描いた一枚である。

広重が描き間違えた!? 江戸っ子の常識

江戸三大祭の一つ「山王祭」は、江戸城の鎮守だった日枝神社(千代田区永田町)の祭礼である。江戸時代の日枝神社は日吉山王大権現社と称し、江戸っ子からは「山王さま」と親しまれた。

この山王祭と江戸総鎮守であった神田明神の神田祭は、徳川3代将軍・家光の時代から山車(だし)や神輿(みこし)が江戸城に入ることを許された。将軍も上覧したことから、両祭は「天下祭り」として全国に名をはせている。行列が城内を通り抜ける「練り込み」は、半蔵門(現・千代田区麹町一丁目)から入り、竹橋(千代田区一ツ橋)から出たという。

広重は、その練り込みの様子を、現在の国立劇場(千代田区隼町)付近から描いている。堀の向こうに見える右手の建物が半蔵門で、そこへとつながる土橋の上を米粒のような人々が巨大な山車を引いて渡っていく。左手前に大きく描いているのは山車飾りの一部で、その下の堀沿いには花笠をかぶった大勢の人々が並んで歩く。近景を枠とする広重お得意の構図だ。

山王祭と神田祭は1681(天和元)年から、山車行列を隔年で交互に開催するようになった。どちらの祭でも行列の先頭は大伝馬町(現・中央区日本橋大伝馬町)の「諫鼓鶏」、その後を南伝馬町(現・中央区京橋)の「御幣猿」の山車が続くのが慣わしであった。

諫鼓鶏は、古代中国における伝説上の君主が「施政に不満があれば、これを叩いて知らせるように」と鼓を設置したものの、誰も不満を抱く者はなく、鶏の格好の休み場になっていたという故事に由来する。つまり、天下泰平の象徴である。猿が担ぐ「御幣」は神道の祭具で、縁起を担ぐ、運気を上げることにつながる。

多くの研究者がこの絵には2つの間違いがあると指摘している。その一つめは、「先頭・諫鼓鶏、2番手御幣猿」の慣行を破って、御幣猿の方が先に半蔵門をくぐろうとしていること。もう一つは、諫鼓鶏の羽の色は神田祭では「白」、山王祭では「五色」と使い分けられていたのだが、なぜか山王祭の行列に白の諫鼓鶏が登場していることだ。

現在の山王祭の祭礼行列「神幸祭」でも、五色の諫鼓鶏は先頭隊列に並んでいる
現在の山王祭の祭礼行列「神幸祭」。五色の諫鼓鶏は先頭隊列に並んでいる

御幣を担ぐ猿は、今では行列の後方を務めている
御幣を担ぐ猿は、今では行列の後方を務めている

最盛期の山王祭は山車60基、鳳輦(ほうれん)と神輿が3基の大行列だったと伝わる。子どもでも知っていたような一大イベントのしきたりを、江戸っ子の広重が間違えるはずがない。絵の改印は安政3(1856)年7月で、直前に山王祭が開かれたことは確かだが、行列の順番を記した史料などは残っていない。「広重は何らかのメッセージを込めたのではないか」という声もあるが、明解な説は存在しない。

写真は2018年、山王祭の行列が出る「神幸祭(しんこうさい)」の日に撮影したが、半蔵門前では広重の時代とは反対方向へと進む。絵と同じアングルの半蔵門と桜田堀に、後ろから撮影した五色の諫鼓鶏をはめ込んで作品とした。

2020年6月12日には日枝神社の氏子各町を巡行する神幸祭が開催予定であったが、新型コロナウイルス流行のために中止となってしまった。未曾有の事態に直面しながらこの稿を書いていて、ふと一つの仮説が思い浮かんだ。

この連載では何度も触れたが、広重は1855(安政2)年10月に発生した安政江戸地震から復興する江戸の姿を『名所江戸百景』で伝えようとした。今回の絵は、大災害からたった8カ月後の山王祭を描いている。多くの犠牲者を弔い、江戸の町の復興を進めるために、例年にも増して縁起を担ぎ、天下泰平への思いが込められていたのではないか? 慣例通りに五色の諫鼓鶏は一番乗りで城内に入っており、それを追う猿の後方には、本来は神田祭に登場する白い諫鼓鶏までもが行列に加わっていたとしても不思議ではない。

関連情報

日枝神社、山王祭

日吉山王大権現社は、江戸の礎を築いた太田道灌(1432-1486)が川越日枝神社を勧請(かんじょう)したのが始まりである。徳川家康が江戸城の鎮守とした当時は、江戸城内の紅葉山にあったが、2代秀忠の時代に江戸城造営のために隼町へ一度遷座し、明暦の大火(1657)後に現在の永田町へと移された。同じく江戸の総鎮守である神田明神も、1616(元和2)年まで大手町にあった。それぞれの移転先を江戸城から見ると、神田明神が鬼門の北東、日枝神社が裏鬼門の南西に当たり、幕府を守護するために配置したと思われる。

山王祭と神田祭は毎年の開催だったが、2つの天下祭りを掛け待ちする大伝馬町や南伝馬町にとってはあまりにも経済的な負担が大きかったため、山車行列は隔年で交互に行うようになったという。江戸っ子たちは三大祭りを「神輿深川、山車神田、だだっぴろいが山王さま」と言い表していたが、日枝神社の氏子町域はとにかく広範囲で、行列は朝から晩まで巡行を続けた。

現在の日枝神社の神幸祭は、鳳輦と神輿の3基に、小ぶりになった山車6基と小規模になったが、王朝装束や裃(かみしも)をまとった総代役員と法被姿の氏子ら約500人が、300メートルの行列をつくる壮麗なもの。朝7時45分に日枝神社を出発すると、四ツ谷や番町、麹町、国立劇場を経由し、皇居外苑で昼休みを取る。その際に、神主など神社関係者だけが坂下門から皇居に入り、神符の献上と参賀を行う。午後は東京駅前、丸の内、日本橋を回ると、中央通りを銀座から新橋へと練り歩く。帝国ホテル前から霞が関の官庁街を抜けて国会議事堂を眺め、午後5時頃にやっと境内へと帰る。まさに日本の中心街を闊歩(かっぽ)する一大パレードである。

次の山王祭は、2022年6月中旬に開催予定。その時には、祭礼行列の先頭を務める諫鼓鶏に、天下泰平を感謝したいものである。

平安絵巻のような祭礼行列は、今でも都会の名物
平安絵巻のような祭礼行列は、今でも都会の名物

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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