『上野山した』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第85回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第12景となる「上野山した(うえのやました)」。桜が登場しなくても、花見のにぎわいを連想させるユニークな春の一枚である。

多くの論争を呼ぶ、謎の行列の正体とは?

江戸時代の上野公園(台東区上野公園)は、徳川将軍家の菩提(ぼだい)寺だった「東叡山寛永寺」の境内で、その東側の平地は「山下」と呼ばれていた。今回の絵が描かれたのは山下の南西に接した寛永寺の門前町で、現在の中央通り「上野公園前」交差点辺りから北東を望んでいる。交番がある公園入口の風景は見覚えある人も多いだろう。

「伊勢屋 しそ(志楚)めし」という大きな暖簾(のれん)を掲げた料理屋が目立ち、広告であることは一目瞭然だ。つり下げたヒラメ、薄紅色の大きなマダイなどの高級魚や、多くの客が出入りする様子、2階の座敷での宴会まで細かく描きこみ、いかにもはやりの店といった雰囲気を演出している。同じく春の上野山が舞台の「上野清水堂不忍ノ池」では、境内に咲く満開の桜が描かれているが、「上野山した」には桜は一切登場しない。それでも、花見のにぎわいを描いた一枚だとされる。鍵となるのは、石垣の手前に立つ人々が遠巻きに眺める、そろいの蛇の目傘を差す行列の存在だ。

上野山は江戸で最も古くからの花見の名所であったが、四代将軍・家綱の霊廟(れいびょう)が寛永寺に完成した後は、花見の際の風紀の乱れを厳しく取り締まった。ただ、江戸っ子もおとなしくはしていない。宴会が禁止になった時期には、酒が飲めないならばと、派手な衣装で人目を引こうとするやからが現れ、今度は仮装が禁じられた年もあったそうだ。江戸後期になると、芸事の師匠が弟子たちとそろいの傘や着物で練り歩くのが流行し、花見の名所は次第にアピール合戦の場となっていく。当時の江戸っ子は同じ装束で東叡山へ向かう集団を見るだけで、にぎやかな花見風景を連想できたのだ。

この一団については、研究者ごとに意見が分かれる。花見を兼ねて寛永寺へ参詣する大奥の御殿女中というのが定説だが、「踊りの師匠と弟子ではないか」「集団で花見に向かう吉原の遊女だ」などさまざまだ。その中で筆者は、吉原遊女説に賛同したい。

年月印から、『市ヶ谷八幡』『びくに橋雪中』と同様、広重がこの世を去った翌月の1858(安政5)年10月に摺(す)られた絵である。そのため、二代広重の作品とされるが、桜を描かずに、花見客でにぎわう伊勢屋付近で春を表現するという巧妙な手法は初代によるものと思われる。いずれにせよ、仕上げを担ったのは二代目だろう。

その二代広重は1年後に、『東都上野花見』という絵を描いており、そろいの蛇の目傘の行列が寛永寺境内を練り歩いている。こちらは髪型や着物がしっかりと見え、吉原の禿(かむろ)や新造(しんぞう)だと一目で分かる。まるで『上野山した』の一団が何者であるかを、種明かししているように思えるのだ。

現在の寛永寺・根本中堂の脇に掲示されている二代広重『東都上野花見』(1868)を撮影させてもらった。解説文には大奥の行列とあるが、髪型は見習い遊女の禿や新造のもので、遣(や)り手や若者も付き従うため、吉原娼家御一行であることは明らかだ
現在の寛永寺・根本中堂の脇に掲示されている二代広重『東都上野花見』(1868)を撮影させてもらった。解説文には大奥の行列とあるが、髪型は見習い遊女の禿や新造のもので、遣(や)り手や若い衆も付き従うため、吉原妓楼御一行であることは明らかだ

現在、上野警察署公園前交番の前後には、絵に登場するのと似た石垣が復元されている。公園のメインゲートなので、花見の時期には多くの人があふれる場所だ。昼間では撮影が困難と考え、早朝7時前に出向いたが、交番脇にある早咲きの桜の前には大勢の旅行者たちが集合していた。石垣を元絵の位置に配すると、桜が少しだけ映り込むが、それも一興と思い、人けが途絶えた瞬間にシャッターを切った。

 

関連情報

下谷広小路、上野門前町伊勢屋、五条天神社

東叡山寛永寺の総門へ通じる広小路は、江戸の町を焼き尽くした明暦の大火(1657)の後、「火除(よ)け地」を兼ねて設けられた。当時は「下谷広小路」と呼ばれ、現在の松坂屋上野店付近から寛永寺に至る大通り沿いは、江戸有数の繁華街へと発展した。

明治以降は中央通りの一部となったが、東京メトロ銀座線「上野広小路」駅に名を残し、今でも飲食店や商店、寄席が軒を並べるにぎやかな場所だ。また、広小路の東には、鮮魚などの食料品や衣料品、宝石まで扱う小規模店舗がひしめく「アメ横商店街」があり、独特の雰囲気で買い物客を引きつけている。

尾張屋版『江戸切絵図』(国会図書館蔵、1851年刊)の「東都下谷絵図」から、寛永寺総門を中心に切り抜き、北を上にした。紫で囲んだのが伊勢屋のある門前町で、隣の赤囲いが五条天神。町の大きさと比較すると、広小路の巨大さがうかがえる。中央右の火除け地に「山下ト云」との記載がある
尾張屋版『江戸切絵図』(国会図書館蔵、1851年刊)の「東都下谷絵図」から、寛永寺総門を中心に切り抜き、北を上にした。紫で囲んだのが伊勢屋のある門前町で、隣の赤囲いが五条天神。中央右の火除け地に「山下ト云」との記載がある

今回の絵が描かれた10年後の1868(慶応4)年、旧幕府軍と新政府軍が寛永寺を舞台に「上野戦争」を繰り広げた。未明から始まった戦闘は、高台にある山王台(現在の西郷隆盛像付近)からの砲撃で、昼までは旧幕府軍が優勢だった。新政府軍は、山王台を望むことができる伊勢屋の2階から、砲手の狙撃に成功。その後、戦況が一変し、たった1日で新政府軍が勝利を収めた。広重の絵をよく見ると、伊勢屋の2階には外の景色を眺める女性の姿がある。上野戦争の話を知ると、「山王台あたりの桜をめでていたのかな」と想像してしまう。

伊勢屋の屋根の上部には雁(がん)の模様をあしらってあるが、新政府軍の勝利に貢献した後、明治時代は「雁鍋(がんなべ)」と店名を改めたそうだ。雁鍋は政府の役人や、豪商などから人気の高級料理店となり、森鴎外の小説『雁』の中でも「雁鍋のある広小路」と記されるほど有名になった。しかし、道路拡張などが影響したのか、明治後期には廃業したという。

あまり目立たないが、伊勢屋の左隣に鳥居が描かれている。医薬の祖神を祀(まつ)る「五条天神」だ。もともと上野の忍岡(現・上野公園)に鎮座していたが、寛永寺造営に伴い、上野山下(現在の「ヨドバシカメラ マルチメディア 上野」付近)に移った。その際に、菅原道真の像も祀られ、天満宮も兼ねるようになったという。昭和初期に、上野公園内の稲荷社(現・花園稲荷神社)の隣に再び遷座し、五条天神社となる。今でも、病気治癒や医療資格試験の合格を祈願しに、多くの人が訪れている。

2021年はコロナ禍により、上野公園では花見の宴会が禁止される。それでも、江戸時代の規制時と同様に、園内を散策しながら満開の桜をめでることはできる。なにかと制限の多い今年の花見の折には、江戸っ子たちが育んだ花見文化に思いをはせるのも一興ではないだろうか。

1928(昭和3)年に遷座した、現在の五条天神社。約1900年前、上野公園内の摺鉢山古墳の辺りに創祠したと伝わる
1928(昭和3)年に遷座した、現在の五条天神社。約1900年前、上野公園内の摺鉢山古墳の辺りで創祠されたと伝わる

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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