『千束の池袈裟懸松』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第93回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第110景となる「千束の池袈裟懸松」(せんぞくのいけ けさがけまつ)」。日蓮が袈裟を掛けたと伝わる松を中央に配し、自然豊かな江戸郊外を描いた1枚である。

青々と草木が茂る洗足池が、なぜ目録では冬の景なのか!?

「千束の池」は、現在の「洗足池」(大田区南千束2丁目)のこと。東急池上線「洗足池」駅の目の前、中原街道沿いにある周囲約1キロの湧水池である。中世のこの一帯の地名が荏原郡千束郷だったため、「千束の大池」「千束池」などと呼ばれていた。

「洗足」の文字が当てられるようになったのは、広重よりも後の時代と考えられるが、その由来となる出来事は鎌倉時代のこと。日蓮宗の開祖・日蓮上人(1222-1282)が、身延山久遠寺(山梨県身延町)から常陸国(現・茨城県)へ湯治に向かう道中、千束池で休息を取り、袈裟を松の木に掛けてから、手足を洗ったと伝わっている。その逸話が広まったことで、後世に「洗足」が用いられるようになったのだ。

日蓮は、その後に立ち寄った池上郷の武士・池上宗仲の館で病状が悪化し、この世を去った。熱心な信者だった宗仲は、法華経の文字数6万9384に合わせて約7万坪を、入滅の地として寄進。そこに建立された寺が、「池上本門寺」の始まりである。江戸時代後期、日蓮宗は庶民からの信仰を集め、日蓮の命日、10月13日を中心に開かれる本門寺の盛大な「お会式(おえしき)法要」は、江戸の風物詩となった。「名所江戸百景」でも第80景『金杉橋芝浦』において、お会式に向かう群衆を描いている。

池上本門寺の参詣客は、金杉橋のある東海道を南下し、南品川宿から大井村を抜けていく、現在の旧池上通りとほぼ同じルートを歩くのが一般的だった。その他には、中原街道の中延村から馬込村を経由する人も多かったようだ。後者の場合、日蓮ゆかりの千束池に立ち寄るのが、お決まりであっただろう。池のほとりには、法衣を置いたと伝わる「袈裟掛けの松」が残っており、見事な枝ぶりは広く知られていた。

1825(文政8)年作成の『東都近郊図』(国会図書館蔵)を、北を上にして、江戸城から池上本門寺付近まで切り抜いた。中央左下の千束池の上に「日蓮ケサカケ松」の文字も見える。田町から白金台町、中延を通る道が当時の相州中原道
1825(文政8)年作成の『東都近郊図』(国会図書館蔵)を、北を上にして、江戸城から池上本門寺付近まで切り抜いた。中央左下の千束池の上に「日蓮ケサカケ松」の文字も見える。田町から白金台町、中延を通る道が当時の相州中原道

広重は池の南側、茶屋が立つ中原街道から北西方向を俯瞰(ふかん)で眺めている。画面の中央右に立つのが、袈裟掛けの松だ。対岸の建物は千束八幡神社(洗足池八幡宮)で、右手には大岡山付近の丘陵地が描かれている。かすみの向こうに見えるのは、武甲山など秩父連山だろう。

この絵の改め印は、1856(安政3)年2月。名所江戸百景で最初に摺(す)られた、5枚のうちの1枚である。近景を枠とする構図など、江戸百シリーズ独特の画風が完成する前で、遠近法やパースも控えめな作品だが、あえて池上本門寺ではなく、道中にある千束池を題材とした点は広重らしい。ただ、目録で冬の景に分類されていることが大いに気に掛かる。木々や丘陵地が青々としており、街道を往来する人の服装も厚着には見えない。池を飛ぶ鳥はコサギで、拡大してみると、夏羽(なつばね)の特徴である頭の冠羽(かんう)が生えているのだ。

名所江戸百景は、春の絵が42枚、夏が30枚、秋26枚、冬20枚の計118景で、冬は春の半分以下と圧倒的に少ない。目録は広重の死後に作成されたので、版元の都合で季節のバランスを優先したと推測できる。花や祭りの風景など、分かりやすい風物詩が登場しない本作を、無理やりに「冬の景」としたのではないだろうか。

現在、洗足池の周囲は、遊歩道やボード乗り場が整備され、大田区立「洗足池公園」となっている。桜が咲く春は花見客で特ににぎわうが、夏は水辺で涼を取り、秋には紅葉が楽しめ、冬にはカモなどの水鳥が集まり、四季それぞれに魅力がある。一応、目録通りの冬、12月に洗足池公園へと向かった。中原街道沿いにはボートハウスがあるため、同じアングルにはできないため、少しでも俯瞰で撮れるように、脚立と長い一脚を使用した。周りの雑木に埋もれて分からないが、中央には日蓮の時代から数えて3代目だという袈裟掛けの松がある。冬の洗足池の写真に、冠羽を持つコサギを合成しながら、複雑な心持ちで作品に仕上げた。

関連情報

千束と洗足、袈裟掛けの松、勝海舟記念館

「千束」と「洗足」。表記の異なる同音の地名は、しばしば混乱を招く。東急電鉄の池上線には「洗足池」、目黒線には「洗足」、大井町線には「北千束」があり、洗足池駅前の洗足池の住所は大田区南千束で、洗足駅は目黒区洗足という錯綜ぶりだ。

千束は昔ながらの地名を継承し、洗足は日蓮に関する伝承に影響を受けているのだが、その逸話は袈裟掛けの松を管理した「御松庵(ごしょうあん)」の作り話だという説もある。真偽は定かでないが、洗足が浸透したのには、御松庵が大きく関わっているのは間違いない。

袈裟掛けの松の傍らには、鎌倉時代に身延山の守護神・七面天女を祀(まつ)る堂宇が建立されたという。日蓮ゆかりの松を守る役割のため、当初は「護松堂(ごしょうどう)」と称したが、後に御松庵と呼ばれるようになっていく。寺の縁起となった伝承を広める中で、池上本門寺の参詣客などに「洗足」の当て字をアピールしたことも考えられる。

御松庵は昭和の初め、関東大震災で被災した浅草の妙福寺と合併。「星頂山妙福寺」となり、現在も袈裟掛けの松を管理している。

広重著の『絵本江戸土産』の第3編(1853年頃刊、 国会図書館蔵)より「千束池」。名所江戸百景では枠外の御松庵も描かれており、「この池の大蛇が人々を苦しめていたので七面大明神を祀った」と解説してある
広重著の『絵本江戸土産』の第3編(1853年頃刊、 国会図書館蔵)より「千束池」。名所江戸百景では枠外の御松庵も描かれており、「この池の大蛇が人々を苦しめていたので七面大明神を祀った」と解説してある

妙福寺内に立つ、現在の袈裟掛けの松。日蓮の時代から数えて3代目となる
妙福寺内に立つ、現在の袈裟掛けの松。日蓮の時代から数えて3代目と伝わる

それでも、広重の画題や古地図を見る限り、幕末までは「千束」が一般的だった。「洗足」を一気に広めたのは、東急電鉄の母体の一つで、田園都市開発を進めた目黒蒲田電鉄のようだ。

1923年(大正12年)に目黒-丸子間を開業し、沿線で最初の分譲地として売り出したのが洗足駅周辺だった。元々は「碑文谷」駅とする計画だったが、名僧ゆかりの土地とした方が人気を呼ぶと踏んだようで、途中から「洗足」駅へと変更。その結果、高級住宅街・目黒区洗足が誕生し、駅名と共に「洗足」表記を知らしめた。

ただ、古くからの住民からは「千束が正式名称だ」と、反発もあっただろう。洗足池公園は、都立だった頃は「洗足公園」だったが、大田区の管轄になった際に“池”が追加された。池は「洗足池」になっても、地名の「千束」は存続させたいという、地元民の気持ちが反映された結果と思われる。

洗足池のほとりにある勝海舟夫妻の墓。かつては池越しに富士山が望めた場所だという
洗足池のほとりにある勝海舟夫妻の墓。かつては池越しに富士山が望めた場所だという

洗足池を愛した人物としては、江戸城を無血開城した幕臣・勝海舟が知られている。城の明け渡しまでに、西郷隆盛と交渉を重ねたが、三田の薩摩藩邸のほか、新政府軍が本営を置いた池上本門寺で会見したことがある。その際に洗足池に立ち寄り、風光明媚(めいび)な景色を大層気に入ったそうだ。明治維新後に別邸「洗足軒」を構え、「没後には池のほとりに墓を建てよ」と言い残したという。勝家の敷地跡には、2019年に「勝海舟記念館」オープン。その思想や功績と共に、地域の歴史を伝えている。

広重が「千束の池」を描いた12年後、江戸時代は幕を閉じた。その最後を取り仕切った人物について学びつつ、2人がめでた洗足池、千束の地を散策してみるのも一興だろう。

大田区立勝海舟記念館。左の建物が昭和3年に完成した旧清明文庫の建物で、右側にエントランスやエレベーターが新設された
大田区立勝海舟記念館。左側は旧清明文庫の建物で、勝海舟関連の図書などを保存・公開するために1928(昭和3)年に完成した。右側にエントランスやエレベーターが新設された

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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