『御厩河岸』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第98回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第105景となる「御厩河岸(おうまやがし)」。蔵前の幕府の米蔵近くにあった渡船場の夕景を描いた1枚である。

なぜ幕府非公認の遊女・夜鷹を大きく描いたのか?

蔵前(現・台東区)という地名は、隅田川沿いに「浅草御蔵」と呼ばれた江戸幕府の米蔵があったことに由来する。創建当初、米蔵の北側には将軍家の馬小屋があり、その川辺には1690(元禄3)年に渡船場「御厩の渡し」が設置された。元禄の終わり頃に厩は閉鎖となったが、渡船場は幕末まで残ったために、付近の隅田川西岸は「御厩河岸」と呼ばれ続けた。現在も蔵前の北端には、その名残として「厩橋」が架かっている。

広重は、御厩河岸から隅田川越しに本所方面を眺めている。御厩の渡しの対岸は石原町(現・墨田区本所)で、中央左に見える石原橋辺りに船着き場があった。グラデーションの濃い空と、まだ明かりがともっていない屋敷群から、日没直後の夕景だと推測できる。川面には「真っ暗にならないうちに」と急ぐ筏(いかだ)や遊び帰りの猪牙舟(ちょきぶね)、遊びに繰り出す屋根船が行き交う。

こちらへ向かう渡し船の船首には、白塗りの顔に手拭いをかぶり、黒い着物に赤い帯を締めた2人の女性が立っている。「夜鷹」と呼ばれた最下層の街娼(がいしょう)で、後ろには客引き兼用心棒の妓夫(ぎゅう、牛太郎)が控えている。江戸の町をたたえる名所絵に、なぜ幕府非公認の遊女・夜鷹の姿を目立つように描いたのだろうか――。元定火消同心だった広重は、幕府からおとがめを受けるような絵を避けたことで知られるだけに度々話題となるが、筆者は歌川一門の絆が関係しているのではないかと考えている。

この絵の年月印は1857(安政4)年12月で、同年同月には3代目歌川豊国(初代国貞)作『江戸名所百人美女』の「大川橋 里俗吾妻はし」も摺(す)られている。美人画の名匠だけあって、広重よりもはるかに美しく描いているが、頭に掛けた手ぬぐいの端をかんだ黒い着物姿は、明らかに夜鷹だと分かる。

3代目豊国画『江戸名所百人美女』より『大川橋 里俗吾妻はし』(1857年 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)。黒の着物と、頭に掛けた手ぬぐいの端をかむのが夜鷹のトレードマーク。このシリーズで男性(妓夫)が登場するのは極めて珍しい
3代目豊国画『江戸名所百人美女』より『大川橋 里俗吾妻はし』(1857年 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)。黒の着物と、頭に掛けた手ぬぐいの端をかむのが夜鷹のトレードマーク。このシリーズで男性(妓夫)が登場するのは極めて珍しい 

江戸名所百人美女は、広重の江戸百が大ヒットする中、それに対抗して刊行された美人画と名所絵を組み合わせたシリーズだ。対抗といっても、この2人は仲の良い同門絵師で、何度も共作した。江戸百スタートの前年には、広重が宿場の風景、豊国が人物を担当した『双筆五十三次』シリーズを完成している。広重の肖像画として知られる「死絵」は豊国が描き、師亡き後の2代目広重の面倒をみて、共作も引き受けた。仕事仲間を超えた“真の友”と言えるだろう。

今回の絵は、歌川派同門の広重から、朋友・豊国へのエールだったのではないだろうか。人気絵師2人が示し合わせ、同時期に夜鷹を登場させることで話題を呼び、始まったばかりの江戸名所百人美女を後押しした。そう考えると、元直参の広重が公儀非公認の夜鷹を描いたこと、共に妓夫まで描いていることにも合点がいく。

2016年冬、御厩の渡し跡に当たる厩橋南側の隅田川テラスへと出向いた。対岸は様変わりしているが、石原橋があった辺りに小さな空間が見えたので、かつての掘割の暗渠だと推測して三脚を立てた。現代の景色の中に江戸の面影を見つけることが、この撮影の醍醐味だと感じながら日没を待つ。東南の空が美しいグラデーションへと変化したのでシャッターを切った。

 ●関連情報

夜鷹と吉田町

今回の絵が摺られた約2年後の1860(安政7)年1月、「こいつぁ春から縁起がいいわえ」のせりふで有名な歌舞伎『三人吉三廓初買(さんにんきちさ くるわのはつかい)』の公演が始まり、大ヒットを記録した。

この芝居に登場する「夜鷹おとせ」は、貧しい身の上ながら、客が忘れていった100両という大金を返そうと捜しまわる、気持ちの優しい女性として描かれている。当時の職業に対する価値観や倫理観などは、現在とは大きく違う。広重と3代豊国も夜鷹を描いたように、当時の江戸っ子にとっては身近な存在であったようだ。

幕末の吉原遊郭で遊ぶには、比較的ランクの低い小見世と呼ばれる妓楼でも1〜2分(1両=4分)くらいの揚げ代が必要だった。1両を10万円に換算すると、2万5000円から5万円ほどだ。それに対し、夜鷹は、24文(1両=6500文)が相場だったので、計算上は400円以下になる。もちろん現在の貨幣価値、物価とは大きく違い、24文で草履が2足買えたというから、今の感覚では2000円くらいかもしれない。それでも吉原の小見世の10分の1以下なのだ。

夜鷹は、江戸後期に数千人もいたとされる。主な客は武家や商家の奉公人、あるいは最下層の役人で、衣食住はあてがわれていたが、年間2〜3両の低賃金で働いていた男たちだ。そうした庶民にとって、吉原の地は憧れるだけで縁遠く、身近な場所にいたのが夜鷹だったのだろう。吉原の花魁(おいらん)の浮世絵は、別世界に住む「大スター」の肖像画のようなものだが、3代豊国が描いた「大川橋 里俗吾妻はし」は、「会いに行ける美女」の似顔絵といった感覚だったのかもしれない。

今回の絵の対岸に描かれた石原町の奥にある吉田町は、夜鷹が多く暮らしていたことで知られていた。隅田川と吉田町の間には、俸禄(ほうろく)の低い旗本や御家人などの小ぶりな拝領屋敷や、下層役人の官舎にあたる役屋敷が立ち並ぶので、客には事欠かない地域だったと考えられる。

尾張屋版『江戸切絵図』(1852年刊、国会図書館蔵)の「本所絵図」の北を上にして切り抜いた。水色の点線が御厩の渡しで、紫の波線が吉田町のエリア。町の北側には役屋敷が見られ、西側には小さな武家屋敷が多い
尾張屋版『江戸切絵図』(1852年刊、国会図書館蔵)の「本所絵図」の北を上にして切り抜いた。水色の点線が御厩の渡しで、紫の波線が吉田町のエリア。町の北側には役屋敷が見られ、西側には小さな武家屋敷が多い

時代劇の夜鷹は、一匹狼のように描かれることがほとんどだが、江戸後期には夜鷹屋といわれる元締めのところに登録し、着物や帯、傘、ござなどを借りて妓夫と一緒に商売に出掛けていたそうだ。広い空き地で商売する場合は、むしろの屋根と壁でこしらえた小屋にござを敷き、客を引き入れたという話も残っている。

今回の絵が摺られた前年には台風、前々年には大地震が江戸の町を襲い、大きな被害をもたらした。家族や仕事を失い、夜鷹になった女性も多かったという。広重や豊国は、何とか日々を生き抜こうとする彼女らの姿で、江戸っ子のたくましい生命力を伝えようとしたのかもしれない。

3代目豊国が描いた広重の死絵(1858年9月刊、東京国立博物館蔵)。死絵とは、有名絵師が亡くなった時の、死亡記事のようなもの。豊国は広重を「今の世の豊国、国芳ともに浮世絵にて此三人にかたをならぶる者なし」と褒めたたえている
3代目豊国が描いた広重の死絵(1858年9月刊、東京国立博物館蔵)。死絵とは、有名絵師が亡くなった時の、死亡記事のようなもの。豊国は広重を「今の世の豊国、国芳ともに浮世絵にて此三人にかたをならぶる者なし」と褒めたたえている

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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