『真間の紅葉手古那の社継はし』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第99回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第94景となる「真間の紅葉手古那の社継はし」(ままのもみじ てこなのやしろ つぎはし)」。古代の悲話にまつわる寺から描いた、江戸百で最も東に位置する1枚である。

絶世の美女の悲劇で知られた紅葉名所

「勝鹿の真間の入江にうちなびく 玉藻刈りけむ手児名しおもほゆ」(葛飾の真間の入り江で風になびく玉藻を刈り取る手児奈の姿を思いしのぶ)

「勝鹿の真間の井見れば立ちならし 水汲ましけむ手児名しおもほゆ」(葛飾の真間の井戸を見れば、ここに通って水をくんだ手児奈の姿を思いしのぶ)

1300年ほど前に、山部赤人と高橋虫麻呂が詠んだ、万葉集に収められる歌である。「葛飾の真間」とは現在の千葉県市川市真間のことで、第96回『鴻の台とね川風景』で紹介した国府台の南西に隣接する。「手児奈(手児名、手古那)」とは飛鳥時代、この付近に住んでいた絶世の美女のことだ。

手児奈の伝説には諸説あるが、あまりの美貌に多くの男たちが求婚し、彼らの間でいくつもの衝突が起こったという。手児奈は、自分が生きていては争いのもとになると思い悩み、入り江に身を投げてしまう。哀れんだ村人たちは、彼女の遺体が流れ着いた場所に祠(ほこら、後の「手児那の社」「手児奈霊神堂」)を建て、その悲劇を語り継いだ。美しすぎたがために命を絶たねばならなかったという伝説は、下総から遠く離れた奈良の都まで広がり、歌聖・赤人をはじめとする都の歌人の想像力をかき立て、多くの歌が詠まれた。万葉集には手児奈にまつわる幾つもの歌が収められている。

伝説を聞いた日本初の大僧正・行基が、737(天平9)年に手児奈を弔うために真間山に「求法寺(ぐほうじ)」を創建。822(弘仁13)年に同地に立ち寄った空海が、堂宇を増築して「弘法寺」に字を改めたと伝わる。鎌倉時代に日蓮(にちれん)宗寺院となり、現在の「真間山弘法寺」につながっている。

真間山の南側には、明治時代に埋め立てられるまで、手児奈が身を投げた入り江があった。明治元年の絵図を見ると、入り江と言うよりは江戸川につながる大きな沼池のようにも見えるが、中世まではこの付近まで海が迫っていたので「真間の入江」と呼ばれ、国府への荷を運ぶ船が着く湊(みなと)もあったという。

大判6枚つづりの歌川貞秀筆『利根川東岸一覧』(1868年刊、船橋市西図書館蔵)より真間の入江を中心に切り抜いた。船が行き来しているのが利根川(現在の江戸川)で、中央奥方向に真間の入江が広がる。題字の下が「真間山弘法寺」で、その下には「紅葉名所」「手子女大明神」「継橋」と書かれている
大判6枚つづりの歌川貞秀筆『利根川東岸一覧』(1868年刊、船橋市西図書館蔵)より真間の入江を中心に切り抜いた。船が行き来しているのが利根川(現在の江戸川)で、中央奥方向に真間の入江が広がる。題字の下が「真間山弘法寺」で、その下には「紅葉名所」「手子女大明神」「継橋」と書かれている

江戸後期に成田参詣が流行すると、市川の宿場がにぎわい、真間山も紅葉の名所として知られるようになった。広重は、弘法寺境内の色づいた楓(カエデ)を近景の枠とし、南側の真間の入江と手児奈を祀る「手古那の社」、参道に架かる「継橋」を描いている。奥には下総の農村地帯が広がり、はるか遠くには筑波山や日光連山を思わせる山影を描いているが、視線が木更津や君津の方角を向いているので、君津・鹿野山あたりだろう。

紅葉の季節になって、真間山弘法寺を訪れた。広重が描いたであろう地点に立つと、入り江があった辺りは住宅地になっているが、高台と崖の地形は幕末と変わらず、眼下には手児奈霊神堂の屋根もはっきり見える。近くに楓はないが、絵とよく似た幹の桜を見つけたので、一脚を使って高い位置からシャッターを切った。

関連情報

手児奈伝説と手児奈霊神堂

手児奈には、さまざまな言い伝えがある。第34代舒明(じょめい)天皇時代(629-641)の国造(くにのみやつこ)の娘だったとする説や、「玉藻刈り」や「水汲み」などと詠まれていることからか、貧しいながら絶世の美女だったとする説もある。大化の改新より前の国造となると、この一帯を治めた豪族で、後に国府が置かれたことからも下総周辺で最も力があったと考えるべきだろう。

国造説では、手児奈は近隣の豪族へ嫁いだが、実家との間で戦が起こり、真間へと戻されてしまう。それを恥じて、真間の井の近くで子どもと2人だけで静かに暮らしていたところ、手児奈を巡って数々の争いが起きたとされる。この場合、それなりの身分でなければ求婚は難しく、権力闘争も絡むため、豪族同士の戦争で多くの死傷者が出た可能性もある。責任を感じた手児奈が、自殺に至ったとしてもおかしくはない。

貧しい美女をめぐる村人のいさかい程度では、さすがに身を投げなかっただろうから、筆者は国造説を取りたい。その方が、1300年も前に遠い下総の悲劇が奈良まで伝わったことにも合点がゆく。

では、江戸時代の人々は手児奈伝説をどのように捉えていたのだろうか。広重は『絵本江戸土産』で「真間の継橋 手児奈の社」を全10巻の記念すべき第1巻に掲載しているが、紅葉の方に重きを置いているので、伝説にはあまり興味がなかったのかもしれない。しかし、その20年ほど前の天保時代に書かれた『江戸名所図会』では、万葉集の短歌、長歌がいくつも紹介されるなど、手児奈に関連する記載が12ページにも及ぶ。古典や風流を好む文化人たちは、大はやりした成田山参詣の道すがら、真間の継橋を渡って手児奈にまつわる旧跡巡りをして、万葉の時代に思いをはせたのだろう。

1836(天保7)年刊の『江戸名所図会』(国会図書館蔵)の「真間弘法寺」。南東から俯瞰(ふかん)で弘法寺を眺めている。中央下部に「手古那明神」、左下に「ままの継橋」の記載がある
1836(天保7)年刊の『江戸名所図会』(国会図書館蔵)の「真間弘法寺」。南東から俯瞰(ふかん)で弘法寺を眺めている。中央下部に「手古那明神」、左下に「ままの継橋」の記載がある

手児奈は神として扱われたため、供養する弘法寺が建立された後も、大明神として神式で祀られていた。広重の絵や江戸名所図会でも、手古那の社の参道には鳥居が確認できる。

明治政府が神仏分離令を発したことにより、管理する弘法寺に合わせて鳥居を撤去し、手児奈霊神堂という仏堂に変わった。安産祈願、子宝祈願、良縁祈願などのご利益があるとされ、現在も多くの人から信奉されている。継橋の跡地も残るので、広重の時代や万葉の時代、絶世の美女に思いを巡らせに訪れてみてほしい。

弘法寺が管理する仏式の手児奈霊神堂
弘法寺が管理する仏式の手児奈霊神堂

入り江は埋め立てられたが、継橋のあった場所には欄干や石碑、説明板が設置されている
入り江は埋め立てられたが、継橋のあった場所には欄干や石碑、説明板が設置されている

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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