『湯しま天神坂上眺望』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第105回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』目録では第117景となる「湯しま天神 坂上眺望(ゆしまてんじん さかうえちょうぼう)」。雪晴れの朝、湯島天神の男坂と女坂の交わる場所から、上野不忍池を望んだ冬の1枚である。

学問の神様は、江戸有数の遊興の地でもあった

菅原道真を祀(まつ)る、東京屈指の学問の神様「湯島天満宮」(文京区湯島3丁目)。受験シーズンには合格祈願に多くの学生や家族が訪れ、「湯島天神」の呼び名で親しまれている。

社伝では458(雄略天皇2)年に勅命を受け、天手力雄尊(あめのたぢからをのみこと)を祀って創建したとされる。14世紀に地域住民の希望で、天神も合祀するようになり、15世紀後半には太田道灌が天満宮の祠(ほこら)を建て、数百本の梅の木を植えたそうだ。

江戸時代には社領の寄進を受けるなど、幕府から手厚く保護される。徳川家康から4代・家綱まで侍講を務めた儒者・林羅山を筆頭に、数多くの学者や文人が参拝したという。5代・綱吉は、林家の学問所と孔子廟を湯島に移し、「湯島聖堂」を造営。1797(寛政9)年には、その私塾が幕府直轄の昌平坂学問所となり、広重の暮らした時代には「湯島=文教の町」というイメージが定着していた。

湯島は江戸有数の盛り場という、もう一つの顔があった。町人が多く住む下谷(現・台東区上野)や外神田(現・千代田区外神田)から近く、境内には景品目的に小弓で的を射る楊弓場(ようきゅうば)や芝居小屋などがあり、門前には料理店や茶屋が立ち並んだ。

毎月25日には植木市が立ち、全国の名寺院から秘仏を運んで公開する「出開帳」もたびたび催され、勧進相撲の本場所が開かれたこともある。特に江戸後期には、幕府公認の「富くじ」興行でにぎわった。最高額の賞金は、現在に換算すると約1億円の1000両だったので、抽選日の境内の盛り上がりはすさまじかったであろう。

『江戸名所図会5巻』(1835刊、国会図書館蔵)の湯島天満宮。表門の左側に「楊弓」と「芝居」の記載も見られる。今回の絵は右ページ中央上の「茶屋」付近から、左ページ上方の「不忍弁天」方向を眺めている
『江戸名所図会5巻』(1835刊、国会図書館蔵)の湯島天満宮。表門の左側に「楊弓」と「芝居」の記載が見られる。今回の絵は右ページ中央上の「茶屋」付近から、左ページ上方の「不忍弁天」方向を眺めている

広重は湯島天神の景観に特別な思いを持っていたようで、名所江戸百景の少し前に出版した自著『絵本江戸土産』では見開き4ページを使って描いている。しかも両方とも、表門側ではなく、境内東の石段側の風景だ。

前の見開きでは、湯島天神を石段下から見上げた絵で、雪の景色が格別なことや、境内のにぎわいについて記した文章を添えている。続いて今回の絵と同じ坂上から、上野方向の眺望を描き、その素晴らしさを絶賛した。つまり、名所江戸百景の『湯しま天神 坂上眺望』は、この2つの挿絵のいいとこ取りをしたものである。

広重著『絵本江戸土産』の5編より「湯島天神雪中之図」(国会図書館蔵)。男坂下から湯島天神境内を見上げる
広重著『絵本江戸土産』の5編より「湯島天神雪中之図」(国会図書館蔵)。男坂下から湯島天神境内を見上げる

広重著『絵本江戸土産』の5編より「同所 坂上眺望」(国会図書館蔵)。江戸百景の構図に近いが雪景ではない
広重著『絵本江戸土産』の5編より「同所 坂上眺望」(国会図書館蔵)。江戸百景の構図に近いが雪景ではない

広重は石段上から俯瞰(ふかん)で眺め、近景の正面奥に緩やかな女坂を上ってきた人、右下隅に急角度の男坂を描いている。左手には石造りの鳥居があり、そこから先に湯島天神の境内が広がる。遠景は下谷の町屋、不忍の池に浮かぶ弁天堂で、奥にうっすら見える屋根は、上野寛永寺の伽藍であろう。

頭巾姿に閉じた傘を持つ人物を、男娼の「陰間」とする説がある。確かに、しなをつくった立ち姿だが、男が着るような羽織をまとい、傘も女性用の蛇目ではなく、番傘に見える。陰間とは、まだ舞台に立てない役者修行中の少年のこと。女方を演じる芸を磨くため、副業として男色を売るものが多くいたことから、男娼を表す言葉になったという。境内に芝居小屋のある湯島天神周辺は、売春をあっせんする陰間茶屋が多くあることでも知られていた。歓楽街の一面も持つ湯島の特徴を伝えるため、広重は男坂と女坂が交わる場所に、陰間を立たせたと考えられないこともないが、真偽の程は不明である。

現在の湯島天満宮からは、大きなビルに阻まれ不忍池は望めない。せめて雪晴れの時に撮影したいと考えていたが、なかなか好機が訪れず、これまでは梅の咲く頃の写真を作品にしていた。2022年の年明け、ようやく東京に雪が積もったので、翌朝に駆け付けた。女坂や鳥居周辺の雪は除かれていたが、閉鎖された男坂や梅園にはまだまだ雪が残っていたので、脚立を立ててシャッターを切った。

●関連情報 富くじ、楊弓場、宮地芝居

江戸の人々にとっての神社仏閣は、行楽や娯楽の対象でもあり、現代の感覚とは大きく異なる。立派な堂宇や庭園を眺め、門前町で名物料理や茶、菓子を楽しむほか、富くじや楊弓、相撲、芝居といった、町中で禁止された遊びが楽しめることも魅力の一つだった。神社仏閣は町奉行ではなく、寺社奉行の管轄地で、目が行き届きやすく、冥加金を徴収しやすい。そのため、伽藍の維持費など寄付金集めを名目に、ギャンブル性の高い興行なども許可したようだ。いわば、庶民のストレス発散の場としても機能していたのだろう。

江戸時代初期から流行した富くじも、その過熱ぶりからたびたび規制された。幕府は冥加金を目当てに19世紀初頭、唯一公認だった谷中の感応寺に加え、目黒不動(瀧泉寺)と湯島天神での富くじ興行を公認。「江戸の三富」と呼ばれるようになり、抽選日には一獲千金を狙う人で大いににぎわったという。

楊弓は、ヤナギ(楊)の木でつくった小さな弓で、的を狙う他愛のない遊びである。ところが、楊弓場が乱立した江戸では、業者間が競い合い、高価な景品を出すことで賭博化が進む。また、矢を拾ったり、接客したりする「矢場女(やばおんな)」がおり、サービス合戦が激化する中で私娼化していく。その結果、町奉行所の管轄内ではたびたび禁止されるが、寺社地では多少規制が緩かったようだ。

江戸で公認の芝居小屋といえば、中村座、市村座、森田座の三座である。しかし、神社仏閣でも寄付を集めるために、仮説小屋で「宮地(みやち)芝居」を興行した。特に市ヶ谷八幡芝神明と湯島天神では、次第に歌舞伎並みに洗練されていったという。18世紀半ば、寺社奉行から公認されたことで事実上常設となり、「三座の宮地芝居」と呼ばれて人気を博す。

芝居小屋と楊弓場があり、富くじも開催した湯島天神の周辺が、繁華街になるのは当然であろう。陰間や矢場女との密会のために、座敷を貸す陰間茶屋や出合茶屋という特殊な茶屋が誕生していく。老中・水野忠邦による天保の改革(1831-45年)の厳しい綱紀粛正で、富くじ、楊弓場、宮地芝居は全て禁止となり、湯島天神境内は一時期、灯が消えたようだったという。水野失脚後には、富くじ以外の娯楽はすぐに復活し、名所江戸百景の時代にはにぎわいを取り戻していた。

湯島天神のある場所は、神田明神と同じく武蔵野台地の縁にあたり、東側は急な崖だった。庶民が多く住む下谷や外神田方面からは、表門よりも東側の方がアクセスしやすく、石段を登らなければならなかったが、一歩一歩踏みしめることで、広重も愛した絶景が、より美しく感じられたことだろう。湯島天神を参拝する現代の受験生には、毎日コツコツと勉強を積み重ね、よりよい未来をつかみ取ってほしい。

「梅まつり」開催中の湯島天満宮。境内には菅公ゆかりの梅が約300本植えられている
「梅まつり」開催中の湯島天満宮。境内には菅公ゆかりの梅が約300本植えられている

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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