『箕輪金杉三河しま』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第106回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』目録では第102景となる「箕輪金杉三河しま(みのわ かなすぎみかわしま)」。江戸時代、毎年荒川区に飛来していたというタンチョウヅルを描いた冬の1枚である。

空を舞う美しいタンチョウは食べられたのか?

戦国武将が好んだ遊びに、飼いならした鷹を放ち、野鳥やウサギを捕らえる「鷹狩(たかがり)」がある。江戸時代には大掛かりな行事となり、将軍や大名の狩猟場「御鷹場」を鳥見(とりみ)という役人が常に管理し、獲物の状況を調べたり、関係者以外立ち入りできないエリアを設けたりした。

鷹狩の中でも特に重要だったのが、年末の「鶴御成(つるのおなり)」。御所の正月料理で使う鶴の肉を献上するため、毎年捕獲して京都に送っていたのだ。つまり、鶴が捕れない年があってはいけないので、幕府の鳥見が11月頃から村中に聞き込みを始め、鶴を探し出して餌付けしておく。目黒や品川、葛西の鷹場なども候補地だったが、鶴御成に関しては、荒川(現・隅田川)流域の岩淵筋にある三河島付近に決まることが多かったという。

三河島は、現在の荒川区荒川辺りにあった農村。北には荒川が流れ、南の高台には徳川家菩提寺の上野寛永寺があり、少し離れた南東を日光道(現・国道4号、昭和通り)が通っていた。街道沿いの隣村が、今回の画題に登場する「箕輪(三ノ輪)」と「金杉」だ。

『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)より、三河島周辺を切り抜いた。左下の茶色線で囲んだところが上野寛永寺、谷中、日暮里あたりの高台。黄色線は、下谷広小路と千住大橋を結ぶ日光道
『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)より、三河島周辺を切り抜いた。左下の茶色線で囲んだところが上野寛永寺、谷中、日暮里あたりの高台。黄色線は、下谷広小路と千住大橋を結ぶ日光道

今の日本で、野生のタンチョウが観察できるのは北海道東部くらいだが、広重の時代には江戸にも毎年飛来したらしい。三河島辺りは鶴の名所として知られ、冬には将軍の鷹場となった。鶴の飛来地が特定できると、鳥見は広範囲にわたって矢来(やらい)という簡易的な柵で囲む。野犬などから守り、鶴にストレスを与える凧(たこ)揚げを禁じるなど、人の立ち入りも制限した。鶴の御成が終わった後も、「翌年も飛来しますように」と願いを込めて、春まで手厚く保護していたそうだ。

広重は舞い降りるタンチョウを、名所江戸百景でおなじみの「枠」とした。近景には水辺に立つもう1羽を描き、遠景にはのどかな田園風景が広がる。まだ矢来は設置していないが、てんびん棒を担ぐ農民は、急いで餌を運んでいるように見える。

今回の絵の解説には、鶴御成では広重が描いたような「タンチョウを狙った」というものが多い。大きいために捕らえるのに苦労したという内容だが、タンチョウは「硬くてまずい」と記した書物もあり、食用としては少し小ぶりなナベヅルやマナヅルの方が一般的だったようだ。生息数が多く、関東でもタンチョウより数多く飛来したという記録がある。頭のてっぺんが赤いのが特徴のタンチョウ(丹頂)に対し、ナベヅルは首から下が濃い灰色、マナヅルは薄い灰色で目の周りが赤い。御所に献上する鶴御成の獲物も、調理具の「鍋」や「真菜(まな板の「まな」)」を名に持つナベヅルかマナヅルだった可能性が高いだろう。

江戸後期の『御鷹野図巻』(国会図書館蔵)の一部分。鷹が捕まえているのは目の周りが赤いマナヅルで、飛んで逃げているのがナベヅル。革の手袋「餌掛け(えがけ)」を着けた鷹匠(たかじょう)が駆け寄っている
江戸後期の『御鷹野図巻』(国会図書館蔵)の一部分。鷹が捕まえているのは目の周りが赤いマナヅルで、飛んで逃げているのがナベヅル。革の手袋「餌掛け(えがけ)」を着けた鷹匠(たかじょう)が駆け寄っている

そもそも名所江戸百景のメインテーマは、安政の大地震(1855年)から復興する江戸の姿を伝えること。翌年の台風でも多くの犠牲者が出たばかりなので、美しいタンチョウを長寿の象徴として描き、江戸っ子の平穏無事を願ったと思われる。

かつての三河島の田畑地帯には、荒川区役所や警察署、保健所など行政機関が集まっている。もちろん、鶴が飛来するようなことはない。下水処理施設・三河島水再生センターの上に整備された荒川自然公園で、コブハクチョウを飼っているというので、冬になってから訪れてみた。公園のスタッフが池に餌をまくと、白鳥や鴨が集まってくる。大きな白鳥が広重のタンチョウをほうふつとさせたので、シャッターを切った。

関連情報

鷹狩と鳥見、鶴の御成

徳川初代将軍・家康は、大の鷹狩好きとして有名だ。「鷹野」や「放鷹(ほうよう)」とも呼ばれた鷹狩は、家康にとって単なる遊猟ではなく、心身の鍛錬や支配地域の見聞を兼ね、軍事・政治的にも重要な行事だったという。

家康を崇拝した3代家光の時代までは盛んだったが、生類憐れみの令で知られる5代綱吉が廃止にする。再び始めたのは、同じく家康を尊敬し、享保(きょうほう)の改革で幕府を立て直した8代吉宗。町奉行の支配地域外の江戸近郊を、放鷹制度で掌握し、内政を安定させる管理システムとして利用したようだ。「上様が狩りをなさる鳥がこちらに飛んできた」との名目があれば、鳥見は大名の抱屋敷(かかえやしき)でも、旗本知行地の村でも入ることが許されたので、幕府の諜報(ちょうほう)員のような役割も担っていたらしい。

鶴御成は各方面の鳥見の報告を受け、寒の時期に日程を組む。将軍が鷹を拳に乗せ、それを放つと狩りが始まり、鶴を1羽の鷹で捕らえるのは難しいため、第2の鷹が放たれたり、鷹匠がとどめを刺したりした。鶴を1~2羽捕らえると鷹匠が将軍の御前でさばき、内臓を鷹に食わせると、腹の中に塩を詰めて京都へと送った。御所では、正月三が日の吸い物の具として使ったそうだ。

鷹狩を終えた将軍一行は、寺院などで休憩や食事を取った。その御膳所の一つが観音寺(荒川4丁目)で、土地名産の「三河島菜」を献上していたという
鷹狩を終えた将軍一行は、寺院などで休憩や食事を取った。その御膳所の一つが観音寺(荒川4丁目)で、土地名産の「三河島菜」を献上していたという

広重の絵が描かれた6年後の1863(文久3)年、鶴の御成は14代家茂が上洛(じょうらく)したことで途絶え、1866(慶応2)年には放鷹制度や鳥見の役職も廃止となる。明治を迎え、幕府の保護政策がなくなり、鶴は乱獲されたらしい。タンチョウがいつまで三河島に飛来していたかは正確には分からないが、夏場の生息地・北海道の開拓や東京の都市化が進み、三河島でも鉄道が走りだしたことを考えると、明治中頃には姿を消したのだろう。

近年、うれしい統計データがある。40年前に比べ、北海道のタンチョウが5倍、鹿児島県出水市に渡来するナベヅルやマナヅルなどが3倍と、鶴の数が増加しているという。東京近郊にも鶴が戻ることを期待しつつ、つい160年ほど前まで、江戸でも野生のタンチョウが見られたということを記憶にとどめておきたい。

明治通りをまたぐJR常磐線の第3三河島ガード下には、「鶴御成」をモチーフにした壁画が描かれている
JR常磐線が明治通りをまたぐ第3三河島ガード下には、「鶴御成」をモチーフにした壁画が描かれている

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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