『南品川鮫洲海岸』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第114回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』目録では第109景となる「南品川鮫洲海岸(みなみしながわ さめずかいがん)」。冬から春にかけての南品川の風物詩、海苔(のり)の養殖風景を描いた1枚である。

浅草海苔は南品川の海岸で養殖していた

東京で「鮫洲に行く」といえば、ほとんどの人が運転免許の更新や試験を受けに行くと思うだろう。現在、鮫洲という町名はなく、京浜急行「鮫洲」駅の東側、品川区南品川と東大井にまたがる旧東海道周辺や、その海側の埋め立て地一帯を指す。江戸時代には南品川宿の南側、東海道の江戸湾側に続く海岸の呼び名であった。つまり、広重が今回の絵を描いた時代には、鮫洲運転免許試験場辺りには船が浮かんでいたのだ。

では、江戸っ子は鮫洲と聞いて何を思い浮かべたのか――。うまい魚介がとれる漁師町、そして禅寺の海晏寺(かいあんじ、現・南品川5丁目)であっただろう。鮫洲の由来には「砂水(さみず)が転じた」など諸説あるが、鎌倉中期に海岸へ打ち上げられたサメの腹から、観音像が出てきたという逸話が有名だ。

それを伝え聞いた鎌倉幕府5代執権・北条時頼が「堂宇を作って、その霊像を安置せよ」と命じ、海辺から現在の大井町・仙台坂上に至る広大な土地を与えた。そこに臨済宗の大覚禅師(蘭渓道隆)が海晏寺を創建したことで、門前に広がる海岸が鮫洲と呼ばれるようになったと伝わっている。

1825(文政8)年作成の『東都近郊図』(国会図書館蔵)の北を上にして、田町から鈴ヶ森までを切り抜いたもの。品川宿を赤枠、「◯海苔名産」と書かれた鮫洲海岸を紫線で示した
1825(文政8)年作成の『東都近郊図』(国会図書館蔵)の北を上にして、田町から鈴ヶ森までを切り抜いたもの。品川宿を赤枠、「◯海苔名産」と書かれた鮫洲海岸を紫線で示した

広重は鮫洲海岸を左手に配置し、北方向を鳥瞰(ちょうかん)で描いている。海面から無数の支柱が頭を出し、浮島のようになっているのは海苔の養殖場だ。この辺りは遠浅の穏やかな海で、冬から春にかけては「アサクサノリ」を育て、それが浅草などで加工されて江戸名物「浅草海苔」となった。古くは名前の通り、浅草付近でも海苔が採れたらしいが、江戸中期以降は品川から大森の海辺や、下総(千葉)の葛西で採集したものを使用したという。その中でも、鮫洲辺りは名産地として知られたのだ。

海岸線には漁師らの家が並び、白帆を上げた船が集まる辺りが品川宿である。遠くには高輪から芝浦の海岸が見えており、右端は浜御殿(現・浜離宮)辺りだと推測される。冬は空気が澄んでいるため、70キロ以上も離れた筑波山もはっきり見えただろうが、随分と大きく誇張しているようだ。

この絵には、2つの鳥の群れが描き込まれている。鮫洲の海上を飛ぶ近い方はユリカモメ、遠くの空を編隊飛行するのはマガン(真雁)であろう。マガンは今では、新潟や石川、宮城くらいにしか飛来しないが、この時代には江戸でも見られ、ユリカモメと同様に秋から冬の風物詩だった。海苔の養殖と渡り鳥、大きな筑波山によって、海辺の冬を見事に表現した秀作といえる。

鮫洲エリアの勝島運河を飛び交うユリカモメの群れ
鮫洲エリアの勝島運河を飛び交うユリカモメの群れ

現在の勝島運河の西岸が、かつての海岸線に当たる。運河沿いには「しながわ花海道」という広場が整備されており、水際まで下りることが可能だ。

2016年の冬に訪れると、水質がきれいになったために魚が増え、それを狙うユリカモメが飛び交っていた。磯風に造られた防潮堤の裾には、海苔がびっしりと付着している。それを食べようと、黒い体でくちばしと額が白い水鳥「オオバン(大鷭)」も集まっていた。北側には埋め立て地の高層ビル群があり、遠くまで見渡せないが、バルコニーが斜めに並ぶ高級マンションが山の稜線(りょうせん)をほうふつとさせた。右側の埋め立て地を入れないようにファインダーをのぞき、海苔の付着した岩場とオオバン、ユリカモメを収めてシャッターを切った。

●関連情報

鮫洲・海晏寺、品川シーサイド

海晏寺は当初、多くの末寺を持つほど繁栄したというが、戦国時代には荒廃してしまう。豊臣秀吉の小田原征伐後、江戸入り間もない徳川家康は1593(文禄2)年、腹心の本多正信に命じて再興させたと伝わる。その際に、三河から招いた和尚が曹洞宗だったため、臨済宗から宗旨替えしたようだ。

当時、江戸から西への往来は、もう少し内陸部で起伏のある中原街道などを使っていたが、家康は来るべき未来を見据えていたのだろう。兵や物資の大量輸送を考え、平坦で広い道路を建設しようと、品川周辺地域の整備に力を入れたと思われる。7年後の関ヶ原の戦いで勝利し、その翌年には東海道を五街道の一つとし、品川を一番宿に定めた。

国道15号線(第1京浜)の西側に残る海晏寺の本堂。御本尊は今でも、サメから出てきたという伝承の正観音菩薩(ぼさつ)だ
国道15号線(第1京浜)の西側に残る海晏寺の本堂。御本尊は今でも、サメから出てきたという伝承の正観音菩薩(ぼさつ)だ

海晏寺の境内奥の小高い丘陵地にはカエデ類が多く、秋には紅葉越しに海を望める景勝地として人気となった。その紅葉狩りの様子は浮世絵にも多く描かれており、実は今回の絵にも海晏寺はしっかりと登場する。海岸近くに並ぶ2隻の帆船の横、左枠まで続く黒い森のようなシルエットがカエデの茂る丘だ。

海晏寺は明治期に入っても信奉を集め、幕末から明治にかけて活躍した岩倉具視や松平春嶽(慶永)、由利公正の墓所が残ることでも知られている。

広重は江戸名所「品川海晏寺紅葉見」(1853年 東京都立図書館蔵)では、海晏寺奥の高台から鮫洲海岸を描いた
広重は江戸名所「品川海晏寺紅葉見」(1853年 東京都立図書館蔵)で、海晏寺奥の高台から鮫洲海岸を描いた

南品川から鮫洲にかけてのエリアは、2002年に臨海線の「品川シーサイド」駅、オフィスビルと大型商業施設が入る「品川シーサイドフォレスト」が開業して以降、海岸通りを中心に人気エリアとなった。それに伴い、旧東海道沿いの青物横丁や鮫洲の商店街にも活気が生まれているので、歴史散策を兼ねて訪れてみてはどうだろう。

旧東海道沿いにある青物横丁商店街
旧東海道沿いにある青物横丁商店街

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら

観光 東京 浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」 関東 浮世絵 江戸時代 品川区 江戸 寺院