リヒャルト・ゾルゲ:伝説のスパイの足跡を訪ねて

ゾルゲが暮らした麻布の下町:伝説のスパイの足跡を訪ねて(1)

歴史

「20世紀伝説のスパイ」となったリヒャルト・ゾルゲ。「帝国ニッポンは北進せず」とソビエト連邦に打電した男は、防諜(ちょう)当局に逮捕され、終戦を前に処刑されてしまう。いま祖国で英雄となったゾルゲをしのんで日本にある墓を訪ねるロシア人ファンもいる。麻布、銀座、永田町、池袋、多磨霊園と、ゾルゲの足跡を追ってみた。

旧ソ連、ロシアでは英雄

リヒャルト・ゾルゲ

 いまも下町の風情を残し、散策する人々でにぎわう東京・港区の麻布十番。その商店街から徒歩でわずか数分、麻布通り沿いの首都高速道路の高架下が、世紀のスパイ、リヒャルト・ゾルゲが暮らした自宅のあった場所だ。

 日中も薄暗く、案内板などないから、このかいわいを行き来する人も、ここがかつて「世紀のスパイ」が住んだ現代史の舞台だとは全く気付かない。開戦前夜の日本を揺るがしたスパイ事件では、ゾルゲを含む主犯格の2人が処刑され、獄死者5人を出している。だがゾルゲ事件もいまや歴史の遠景に遠ざかってかすんでいる。

 一方、ロシアでは、東京のゾルゲが「最強をうたわれた日本の関東軍は満州(現在の中国東北部)から対ソ国境を侵して北進せず」と極秘情報をモスクワに伝え、ソ連軍の主力がドイツと戦う西部国境に備えることを助けた「ソ連邦英雄」として、彼の功績を顕彰している。2015年には生誕120周年を記念して、ロシア連邦軍参謀本部がモスクワ市内の学校に胸像の記念碑を設置し、その除幕式も行われた。ゾルゲの名を冠した道路や、学校も、各地にある。日本での評価は稿を改めるが、日露両国のゾルゲに対する評価は、その時々で揺れ続けながら、いまに至っている。

スパイの自宅は警察署のそば

 ゾルゲが来日したのは1933年。ドイツでヒトラーが政権についた年であり、国際情勢は風雲急を告げていた。

 ゾルゲという男は実に大胆不敵だった。日本で情報活動の拠点にした麻布の自宅は、スパイが最も恐れる特別高等警察(特高)がいた鳥居坂署(当時)の目と鼻の先。同盟国ドイツ国籍ではあっても外国人は全て特高の監視下にあることを承知の上で、日米開戦の足音が聞こえる東京の中枢で大型のオートバイを乗り回し、美しい女たちを連れて出歩いていた。そうした派手な行動は、極東の都で防諜当局の目を欺く、ゾルゲ一流の巧妙な作戦だったのだろう。

現在は首都高速道路の高架下になったゾルゲの自宅跡。写真左手の道へ進むとロシア大使館(旧ソ連大使館)

日本軍の侵攻から祖国を守り抜け

 日本軍はソ満国境を侵して北進し、対ソ戦に踏み切るのか。それとも南進して東南アジアの石油地帯を手に入れ、英米と衝突するのか。軍部に支配された日本が、同盟国ナチス・ドイツと連携してソ連に攻めてくれば、いかに大国のソ連といえども挟み撃ちされ、国家存亡の危機に陥ってしまう。その動向を精緻に探り出すのが、抜群の諜報能力を持つゾルゲに課された最重要任務だった。

 ゾルゲは近衛文麿首相のブレーンにまで独自の情報ネットワークを張り巡らし、帝国日本の針路を決める御前会議の極秘内容まで入手するようになる。

 表向きゾルゲはドイツの有力新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員として取材活動をしていた。東京支局という事務所は構えず、自宅をオフィスにしていた。ゾルゲが組織した諜報団の面々も、時には鳥居坂署の前を堂々と通って訪ねてきた。

ゾルゲ宅に通う若き日本女性

 来日して2年がたった頃、彼の麻布の自宅を週2回訪れる日本女性がいた。16歳年下の恋人、石井花子だった。二人の出会いは後に詳しく紹介しよう。

 花子の著書『人間ゾルゲ』(角川文庫)によると、この家は洋風の2階建てで、書斎と寝室がある2階からは鳥居坂署が見えた。早朝から英語を話す老婦人が通ってきて、午前6時になるとゾルゲを起こした。彼は朝風呂に入った後、エキスパンダーで体を鍛えていた。午前中は読書やタイプライターでの執筆を続け、昼食後に昼寝をしてから、ナチスの機密情報が届くドイツ大使館や、外国報道各社がある銀座方面へ向かった。

 花子が来る夜は、ゾルゲが必ず玄関の外灯を点けた。諜報団に「今夜は入ってくるな」というサインだった。いつ終わるか分からない諜報活動の緊張の中、花子と過ごすひとときはゾルゲをどれほど癒してくれたことだろう。

独学でニッポン研究のエキスパートに

 ゾルゲは来日前から日本に関して研究し、かなりの知識を持っていた。麻布の自宅の書斎には外国語に翻訳された古事記、日本書紀、源氏物語といった古典をはじめ1000冊近い日本関係の蔵書が並んでいた。彼が書く東京発の「ニッポン・レポート」の記事は欧州でも高い評価を得て、在京の外国人特派員の間でも図抜けた存在だった。

「もし平和な時に生まれていたら、私は多分、学者になっていただろう」とゾルゲは後に述べている。第二次世界大戦直前の暗い時代が、彼をスパイにしてしまった。

 ゾルゲ宅には軍服姿の日本軍人がやって来ることもあった。花子と二人だけの時、ゾルゲが独特の日本語でこんなことを言ったのを、彼女は覚えている。

「日本の政府、今、たくさん軍人です。軍閥政府よくない思います。軍人、頭悪いです。負ける話はしません。いつでも勝つ話だけ」

「ロシア、たくさん強いです。日本、ロシアと戦争しないでいいです」

「日本と中国、早く戦争おしまいにしたいです。平和いちばんいいです」 

 ゾルゲは1895年、ドイツ人技師の父とロシア人の母との間にロシア帝国で生まれた。3歳でドイツ・ベルリンに移り、高校生の時に第一次世界大戦が勃発するとドイツ軍に志願して出征。3度にわたって負傷し、戦争を憎むようになった。

 その直後の1917年に起きたロシア革命の影響を受け、ドイツ共産党に入党。ソ連が成立すると、24年にモスクワへ行き、ソ連の市民、ソ連共産党員となった。中国・上海でのスパイ活動を経て、日本にやってきた。

ソ連大使館はゾルゲ宅の近所

 ゾルゲの自宅があった麻布区永坂町(現在は港区麻布十番1丁目)は当時、緑が多い閑静な住宅地だった。戦後に区画整理されて、ゾルゲ宅は道路の一部に。その地下には東京メトロ南北線が走り、当時の面影はない。

現在のロシア大使館(写真提供:在日ロシア大使館)

 ゾルゲ宅から歩いて約10分で、麻布区狸穴町(現在は港区麻布台)のソ連大使館(現ロシア大使館)に着く。ゾルゲは警戒して、得意なロシア語を日本では話さず、ソ連大使館に出入りすることもなかった。だが、時折オートバイで狸穴を走りぬける際には、大使館にちらりと視線をやり、社会主義の祖国、ソ連邦への誓いを新たにしたのだろう。あえて鳥居坂署の隣に居を構え、ソ連大使館には一切近づかない。ここにゾルゲの大胆にして細心な素顔がのぞいている。

 日本での8年間に及ぶ諜報活動の果てに、ゾルゲは永坂町の自宅で逮捕された。真珠湾攻撃のわずか2カ月前の1941年10月のことだった。

 現在のロシア大使館の中に、大使館関係者の子弟が通う小中高等学校がある。学校名には、なんと「ゾルゲ」の名が冠されている。ゾルゲはこんな形で今も東京に生きている。

ロシア大使館の中にある「ゾルゲ学校」の入り口。上のプレートに「ゾルゲ」の名がある

現場へのルート

最寄りの駅は地下鉄「麻布十番」駅
麻布図書館のすぐ近く

 ゾルゲの旧宅跡地へは、東京メトロ南北線・都営大江戸線麻布十番駅の6番出口(新一の橋方面)から、首都高速道路下の坂道を1、2分ほど上る。今は幹線道路となっているため、車の往来が激しく近寄れない。案内表示はない。

 7番出口から出る場合の分かりやすい目標は、旧鳥居坂警察署の跡地(現在は高層住宅やスタジオ)の前にある港区立麻布図書館。同図書館からゾルゲ旧宅があった高速道路下の麻布通りを横断して10分歩くと、ロシア大使館へ。

 旧町名が「麻布区永坂町」という通り、長い坂道が多い。また、この地を有名にしたそば屋もある。

ゾルゲ旧宅周辺の地図(戦後、区画整理されて麻布通りができ、その上に首都高速が走るようになったので、ゾルゲが暮らしていた当時とはだいぶ違う)

ゾルゲが暮らしていた頃の麻布の地図

バナー写真:2015年の生誕120周年を記念して、モスクワ市内の学校に設置されたゾルゲの胸像除幕式(写真提供:モスクワ市庁広報部)

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