リヒャルト・ゾルゲ:伝説のスパイの足跡を訪ねて

ゾルゲの情報戦と恋の街・銀座:伝説のスパイの足跡を訪ねて(2)

歴史

ゾルゲの情報戦(インテリジェンス・ウォー)の主戦場は、華やかなりし銀座の街だった。「20世紀伝説のスパイ」は、ジャーナリストの顔で国際通信社の東京支局に現れて最新のニュースを仕込み、日が暮れると美しく着飾った女たちが溢(あふ)れる夜の銀座に消えていった。

ゾルゲが通った銀座一の8階ビル

 いまにもリヒャルト・ゾルゲが機密電報を内側のポケットに忍ばせて飛び出しくるのではないか――。このレトロな香りに包まれたビルの前に立っていると思わずそう感じてしまう。ゾルゲがソビエト赤軍の命を帯びてニッポンにやってきた1933年に完成し、当時、銀座随一の高さを誇った「電通銀座ビル」だ。

 外装も、1階のエレベーターホールも、ゾルゲが出入りしていた当時のままにいまも使われている。地上8階建て、高さは36.7メートル。ゾルゲが出入りしていた8階から外を眺めてみると、現在は同じ高さの建物も珍しくないが、当時は東京の街全体が一望できたことだろう。ゾルゲはパイプの煙をくゆらせながら、次なる標的に思いをはせたに違いない。

戦前のレトロな香りが漂う現在の「電通銀座ビル」(写真左)と、ゾルゲが通っていた頃のビル外観(写真右、1935年撮影、写真提供=電通)

外国特派員のメディア・センター

 重厚にして壮麗なこのビルは、日本電報通信社(現在の電通)の旧本社社屋。上の階には、1936年に電通の報道部門を引き継いで当時日本最大の通信社となった「同盟通信」のオフィスが入った。最上階はロイター、AP、UPなど有力な国際通信社をはじめ、各国の特派員が支局を構える専用フロア。上海と並ぶアジアのメディア・センターであった。ゾルゲはドイツの有力紙「フランクフルター・ツァイトゥング」東京特派員の記者証を持っていた。彼はまずドイツ通信社DNBの支局に顔を出し、ヒトラー政権の最新の動きや、第二次世界大戦前夜の欧州情勢をつかんで、情報源のところに出向くのが日課だった

 1939年9月、ポーランドへ侵攻したドイツに対して英仏両国が宣戦布告した翌日、フランスの通信社アヴァス(AFPの前身)の特派員ロベール・ギランはこの8階でゾルゲと鉢合わせした。ギランの著書『ゾルゲの時代』(中央公論社刊)によると、彼はナチスドイツへの怒りからエレベーターの中でゾルゲを激しくののしった。ずっと黙っていたゾルゲは1階に着くと、「ゆっくり話がしたい」とギランを食事に誘った。

 ゾルゲは第一次世界大戦で負傷したことや、敗戦国ドイツの悲惨な体験を語り、「私はあらゆる戦争を憎む」と言った。ドイツ愛国主義者だと思っていた人物の意外な告白に驚いたギランは、ゾルゲが「絶望的にまで平和を愛する一人の人間」と感じた、と書いている。

ゾルゲも使っていたビル1階の豪華なエレベーターホール。きれいな壁面は当時のままだ。

ゾルゲがつかんだ世界的スクープ

ブランコ・ヴケリッチ(出典:クルト・ジンガー 『スパイ戦秘録』、国際新興社、1953年)

 後に枢軸国側、連合国側となって戦うことになる国々、それに中立国の各陣営のジャーナリストが電通ビルにTokyo支局を構え、極東発のニュースを全世界に向けて送っていた。彼らは貴重な情報をやり取りし、互いの手の内を探りあった。各国特派員の動きはその時々の極東情勢を映す鏡だった。彼らが水面下でやり取りするインテリジェンスに吸い寄せられるかのごとく、ゾルゲはこのビルに現れたのだった。実はここを拠点に「ゾルゲ諜報(ちょうほう)団」の中核をなす外国人グループの「ナンバー2」がいた。ギランと同じアヴァス通信に勤めるクロアチア出身のジャーナリスト、ブランコ・ヴケリッチである。同盟通信に毎日出入りして日本の中枢部の動向を追い、ゾルゲに最新情報を提供していた。

 世紀のスパイ事件はとても複雑だ。ヴケリッチは1939年8月、東京発の世界的なスクープを打電した。仲の悪いはずのドイツとソ連の「不可侵条約」締結交渉のニュースだ。もともとはゾルゲがつかんだネタだが、ヒトラーを憎むゾルゲが祖国ソ連の納得できない動きを阻止するため、あえてフランスの通信社を使ってこのニュースを公にしたものと思われる。ソ連の絶対的指導者スターリンへの抵抗でもあった。

 一流のスパイはこうして情報戦も行っていた。日本では独ソの「悪魔の盟約」のため、ヴケリッチのスクープが流れた半月後、ドイツとの防共軍事同盟を進めていた平沼騏一郎首相が「欧州情勢は複雑怪奇」との声明を残し、内閣総辞職した。日本は情報戦で完全に後れを取っていた。

 一方、ヴケリッチはその後、ゾルゲと同じ日に逮捕され、無期懲役となった。極寒の網走刑務所に服役中、1945年1月、終戦を待たずに獄死した。若い日本人妻と幼子が残された。

ドイツ酒場で運命の巡り合い

 風雲急を告げる欧州情勢を東アジアの地から眺め、日本軍部の動向に独自のネットワークを張り巡らして追っていたゾルゲ。戦後、日本のメディアは、日夜、身を切り刻んで戦う「クレムリンのスパイ」というゾルゲ像を作り上げた。だが、彼の日常は意外なものだった。電通ビルから歩いてわずか3分、そこにはゾルゲなじみの酒場があった。ドイツ人が経営する「ラインゴールド」だ。おいしいドイツ料理があり、若い女性たちもいた。本場から直輸入のドイツビールが飲めるので、客は日本人と外国人が半々。各国の大使館員や商人、日本の知識人、軍人たちでにぎわっていた。

 1935年10月、来日3年目のゾルゲがちょうど40歳の誕生日に、接待役の「アグネス」と初めて言葉を交わした。日本の恋人となる石井花子、24歳だった。郷里の倉敷を離れ、2年前に東京へやってきた。女性に対して積極的なゾルゲは、花子と杯を重ねるうちに翌日のデートに誘い、交際が始まった。「彼の顔は浅黒く、栗色の巻き毛。瞳は青く、相手を直視して話す眼光は迫力があった。静かな物腰、言葉の表情が深い教養のある人を思わせた」と、花子は著書『人間ゾルゲ』の中で書いている。

 ある夜遅くゾルゲは仕事の帰りにラインゴールドへやってきた。彼は花子にオートバイの後部に乗るよう指示し、フルスピードで麻布の自宅に帰った。花子が初めてゾルゲの寝室で眠った日のことだ。やがて花子は週2回、ゾルゲ宅に通うようになる。二人の交際はゾルゲが逮捕されるまで6年間続く。

外国人を含め、多くの人でにぎわう銀座の並木通り。この通りの先にドイツ酒場「ラインゴールド」があった。

「ラインゴールド」の跡地付近(並木通り)

帝国ホテルのバーにも出没

リヒャルト・ゾルゲ

 ゾルゲは夕方になると、銀座に近い帝国ホテルの地下のバーにも出没した。当時も外国人客の多い、東京屈指の格調を誇るホテルだ。知り合いの記者やドイツ大使館員を見つけると、高い椅子に腰掛けて、ウイスキーグラスを片手に国際情勢の情報交換もしていた。泥酔してオートバイで自宅に帰れず、泊まっていくこともあった。

 男の色気にあふれていたゾルゲは女性に相当もてたようで、銀座の街を飲み歩き、浮名を流すこともあった。ゾルゲの逮捕後、東京の社交界では彼との関係を認める女性たちもいた。戦争が近づいてきても、銀座はまだまだ輝いていた。

 ゾルゲが仕事と恋に全力投球した銀座は今、ロシアを含め外国からより多くの観光客を集め、「国際都市Tokyo」の中心となっている。しかし、ここでもゾルゲ事件の現場に気付く人はほとんどいない。

現場へのルート

最寄りは地下鉄「銀座」駅
三笠会館のすぐ近く

 電通銀座ビル(中央区銀座7丁目)へは、東京メトロ銀座駅のB9番出口から外堀通りに出て、徒歩5分程度。関東大震災の教訓を生かした耐震耐火構造で、戦火をくぐり抜けて今年で築85年となる。正面玄関の上部には女神吉祥天の彫像などがある。

 ゾルゲがいたのは最上階の8階。同盟通信はゾルゲ逮捕の翌1942年、日比谷に移った。今の8階には外国通信社の支局などはもうなく、日本広告業協会の事務所などになっている。1階のエレベーターホールはほぼ当時そのままに残っている。壁は今も金色に輝き、完成当時、堂々たる近代ビルだったことを実感できる。

 ビルから3分ほど歩くと、にぎやかな並木通りのカルティエビル付近にあったドイツ酒場「ラインゴールド」跡地(銀座5丁目)に着く。ゾルゲが仕事帰りに好んで行ったのもよくわかる。すでに閉店となり、建物はない。案内板などもないが、目標となるのは有名なレストランの三笠会館。跡地のすぐ先にある。

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