リヒャルト・ゾルゲ:伝説のスパイの足跡を訪ねて

ゾルゲ情報戦の拠点は帝国ニッポンの中枢、永田町:伝説のスパイの足跡を訪ねて(3)

歴史

ニッポンは果たして北進して祖国ソ連に戦いを挑むのか――。リヒャルト・ゾルゲは、日本政治の中枢に深く食い込んで極秘情報を探ろうとしていた。そんなゾルゲ情報戦の拠点となったのが、国会議事堂の隣にあったナチス・ドイツの大使館だった。クレムリンが放った「世紀のスパイ」は、ドイツ大使が最も信頼を寄せる相談相手になりすまし、第一級のドイツ情報と日本中枢の機密情報を入手していた。

ナチス・ドイツの大使館こそ情報拠点

 4000万冊超の蔵書数を誇り、国民に広く利用されている国立国会図書館。その最大の使命は「国会議員の立法調査活動を補佐する」ことであり、それゆえに、国会議事堂のすぐ脇に控えるように建っている。国会図書館から100メートルほど東にある「憲政記念館」は、議会開設80年を記念して1970年に設立されたものだ。

 議会制民主主義の基盤をなす施設が集まるこの一帯が、帝国日本の軍事中枢だったことを知る人は次第に少なくなっている。現在の国会図書館のある場所には、太平洋戦争が終結する直前まで、ナチス・ドイツの赤レンガ造りの大使館があったのだ。憲政記念館の敷地には、開戦直前まで旧陸軍省と参謀本部が建っていた。

国会議事堂の右手の通りをはさんだ白い建物が国立国会図書館。ここに旧ドイツ大使館があった。(Pixta)

 ゾルゲは逮捕後の獄中手記で、日本でのスパイ活動の情報源の第一に「ドイツ大使館」を挙げている。ここを舞台にゾルゲは縦横無尽に活躍した。その端緒はあるドイツ人女性との約10年ぶりの再会だった。ドイツ時代の知り合いの妻だったヘルマ・ボーデヴィッヒが、離婚後に、駐日大使館付きの武官であるオイゲン・オットと再婚して東京にやってきたのである。日本について深い知識がないオットは、ヘルマの紹介でゾルゲと知り合うと、日本の中枢に知己を持つゾルゲを頼って「東京発オット電」をベルリンに送るようになる。ゾルゲがナチス党員として記者証を持っていたことで信頼を深めていった。

オットが、1938年に大使に起用されると、ゾルゲにとってドイツ大使館は一段と有力な拠点となった。

 ゾルゲは朝目覚めると、まず大使公邸に出かけて大使のオットと朝食を取る。そしてベルリンから届いた機密事項や最新のニュースを二人であれこれ検討する。時に手持ちのカメラで秘密書類を盗み撮ることもあった。やがてヘルマ夫人と深い仲になったこともあって、ナチス・ドイツの重要情報にアクセスできる一層の自由を得ていった。

 日本とナチス・ドイツはやがて軍事同盟を結ぶ盟友だった。だが、日本は対米交渉の様子だけは、ナチス・ドイツにも極秘にして明かさなかった。それだけにオット大使は、日本の政治の中枢に情報源を抱えていたゾルゲを頼りにしていたのである。「ゾルゲ諜報団」の日本人グループのトップで、近衛文麿首相の顧問を務めていた尾崎秀実(元朝日新聞記者)のルートから閣議などの重要情報を入手し、それらの情報をオットに提供し、信頼を得ていた。ベルリンに向けた「オット公電」にはゾルゲは欠かせない存在だった。大使に代わってゾルゲ自ら筆を執ってベルリンへの公電の草稿をしたためることもあったという。

ゾルゲは「ダブル・エージェント」か

 ゾルゲの祖国ソ連がなんとしても知りたかった極秘情報、それはたった一つ。極東の軍事強国、日本がナチス・ドイツと連動しながら、果たしていつソ連に攻め込んでくるのか、だった。クレムリンの最高権力者スターリンは、ヒトラーとの間で39年8月に独ソ不可侵条約を結び、日本とも41年4月に日ソ中立条約を結んでいる。だが、それらの盟約はかりそめにすぎないことを当の国々は知っていた。

 オットのドイツ大使館をすっかり手の内に入れていたゾルゲは、「ナチス・ドイツ軍は41年6月22日を期してソ連攻撃に踏み切る」と正確な日付を入れてモスクワに打電した。しかし、スターリンはこの「ゾルゲ特電」を冷たく無視したのだった。ゾルゲは偽造された情報に操られていると考えたのだった。その責めは、緒戦での壊滅的な敗北によってスターリンが負わなければならなかった。それでもなお、スターリンは「ゾルゲはナチス・ドイツの二重スパイだ」という疑いを捨てなかったという。

 一方、ドイツは前年に結んだ日独伊三国同盟を理由に駐日大使館を通じて日本の対ソ参戦を強く迫っていた。「日本軍部が米英らの植民地がある南方へ向かう」――。ゾルゲは南進の方針を固めた御前会議の極秘情報を入手し、同10月初め、「日本はソ連とは戦端を開かず」という緊急電をモスクワに打電した。その結果、ソ連は安んじて対独戦争に兵力を振り向けることが可能となり、「ゾルゲ特電」はソ連の勝利に大きく貢献することになる。

 ゾルゲはこれで「日本での任務は果たされた。日ソの戦争は回避された」と判断し、日本からの脱出を模索するようになっていく。希代の諜報員の直感は、身辺に日本の官憲の陰がひたひたと迫っていると告げていたのだろう。

「同盟国ドイツの大使の特別な友人」を隠れみのにしてきたゾルゲだが、怪しい無線電波が都内からソ連方面に送られていることを察知していた日本の特別高等警察(特高)は、1年前からゾルゲ諜報団の内定を進めていた。近衛内閣のブレーンの尾崎が加わっていたのでなかなか手を出せなかったが、近衛退陣がはっきりしてくると、日本人メンバーを次々と逮捕。近衛に代わって東条英機陸軍相が首相に就任した同10月18日、ゾルゲら外国人メンバーが一斉に逮捕された。日本の捜査当局は外交関係に配慮して慎重になり、まず、日本人容疑者らを自供させ、確信を得てから同盟国の外国人の逮捕に踏み切った。

ゾルゲ逮捕に激怒するオット大使

オット大使(出所:Arno von Moyzischewitz (1890-1937) - Papers on Ott among his Berlin Document Centre Files)

 最も信頼する友人を逮捕されたオット大使は夫人とともに激怒し、東条新首相に抗議する事態となった。ナチ党の東京支部もゾルゲの釈放を求めた。ドイツ大使館は、ゾルゲが日本に批判的な報道をしたためにスパイ容疑を掛けられたと思い込んでいた。 

 大使の強い要求で、一週間後にオットとゾルゲの面会が実現する。ゾルゲは最初、面会を嫌がったが、取り調べの検事に「こういう状況になった日本人は、会って最後の別れの言葉を告げるものだ」と諭され、承諾したという。

「弁護人を付けようか、何か私に言いたいことは」とのオットからの問に囚人服のゾルゲは「いいえ、どうか奥様とご家族によろしく」と答えた。オットにとっては晴天のへきれきだったが、これでゾルゲが有罪であることを理解した。(エルヴィン・ヴィッケルト著「戦時下のドイツ大使館(中央公論社刊)

「鹿鳴館」の建築で知られる明治のお雇い外国人建築家、ジョサイア・コンドルが設計したこの大使館では、日独の宴が何度も開かれたが、1945年5月の大空襲で焼失した。その直前の4月末にヒトラーが自殺してドイツが降伏、第二次世界大戦末期のことだった。

 戦後の復興で、東京の街は生まれ変わった。ドイツ大使館の跡地には、国会図書館が建てられ、1961年から利用が始まった。日本の政治の中心地を意味する「永田町」がゾルゲ事件の主要な舞台であったことも、歴史の中に埋もれようとしている。

2015年の生誕120周年を記念して、モスクワ市内の学校に設置されたゾルゲの胸像(写真提供:モスクワ市庁広報部)

現場へのルート

最寄りは地下鉄「永田町」駅か、「国会議事堂前」駅
歴史を感じるスポット

 国会図書館(千代田区永田町1丁目)へは、地下鉄「永田町」2番出口から徒歩5分程度。あるいは「国会議事堂前」の1番出口から徒歩12分ほど。空襲で焼失した旧ドイツ大使館にちなむものは残されていない。国会議事堂に隣接し、皇居からごく近い場所に大使館を構えていたことは、ドイツが日本にとって親密な同盟国であったことを如実に示している。旧ドイツ大使館の土地は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に接収され、ドイツ大使館は港区南麻布に移った。

 国会図書館に隣接する「憲政記念館」は、日本の議会政治の黎明期から戦後まで衆議院議員を務め、憲政の功労者と称される尾崎行雄を記念して建てられた。戦前には、陸軍省や参謀本部があったが、さらに江戸時代までさかのぼると、彦根藩の上屋敷があった場所でもある。大老の井伊直弼が江戸城への登城する途中に暗殺された「桜田門外の変」で知られる桜田門は、憲政記念館の庭園から見下ろすことができる。

 なお、陸軍省はゾルゲが逮捕された後、太平洋戦争開戦(1941年12月)とほぼ同時に市ヶ谷(現防衛省)に移った。

ゾルゲの時代のドイツ大使館周辺の地図

バナー写真:旧ドイツ大使館の跡に建っている国立国会図書館

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