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2018/6/9

ゾルゲ、最後の戦い・巣鴨:伝説のスパイの足跡を訪ねて(4)

ゾルゲは特高警察に逮捕されたが、孤高の戦いはなお3年にわたって続いた。舞台は、後に「巣鴨プリズン」の名で知られるようになる旧東京拘置所。官憲による厳しい取り調べを受ける中で、極刑を覚悟したゾルゲは、諜報団をかばい、愛した女性たちを守り抜いた。そして、刑場の露と消えていった。

サンシャイン60ビルの真下に刑場跡

 地上60階、高さ240メートルを誇る東京・池袋の「サンシャイン60」。今年でちょうど開業40周年を迎えた複合商業施設サンシャインシティは、2017年度の来訪者が過去最高の3290万人に達し、連日、にぎわいをみせている。この超高層ビルの真下に、こんもりと茂った小さな公園がある。繁華街の喧騒もここまでは届かないのだろう。昼休みのサラリーマンたちがひと時の憩いを楽しんでいた。

ゾルゲが収容されていた東京拘置所の跡にそびえ立つサンシャイン60

 サンシャインシティがある場所には、戦前、「東京拘置所」が置かれ、未決囚が収容されていた。彼らのなかには、治安維持法違反で検挙された共産主義者などのいわゆる思想犯もいた。拘置所の北西には処刑場があり、ここでゾルゲ諜報団の主犯ゾルゲと尾崎秀実の刑が執行された。戦後間もなく、GHQに接収され戦争犯罪人を収容した「巣鴨プリズン」と呼ばれるようになった。後に東条英機などA級戦犯7人の処刑も行われた。「東池袋中央公園」と名付けられた豊島区立の公園が処刑場の跡地だったことを知る人は少ない。

豊島区立東池袋中央公園

 1941年10月に逮捕されたゾルゲは、処刑されるまでの最後の3年間をこの拘置所の狭い独房で過ごした。逮捕当初は否認を続けたが、1週間後にスパイ活動を自白するようになった。ソ連へ機密情報を伝えるのに使った無線送信機など証拠物件を次々と突き付けられ、諜報団のメンバーが逮捕されて供述していることを悟ったからだ。メンバーたちが過酷な責めに苦しんでいることは容易に想像できた。

諜報団の仲間をかばうゾルゲ

 逮捕の直前に「日本は対ソ戦には入らず」と緊急電をクレムリンに打電し、「これで我が任務は終われり」と思い定めたゾルゲ。突然、意を決したのだろう。取り調べの特高警察と思想検事に、「早く調べて、早く決着をつけてほしい」と語ったという。諜報団のリーダーとして、自分一人が犠牲になることで、仲間たちの命を守りたいと考えたのだろう。命を懸けて献身してくれた諜報団メンバーの刑を少しでも軽くし、軍閥政治と闘った日本人もかばおうとしたのだった。そんなゾルゲの決意は、東京地裁ですべて非公開のまま行われた法廷でも示された。

「自分はどんな刑でも受けますから、日本人は助けてください」とゾルゲは訴えていたのである。 

 そしてゾルゲがなんとしても守り抜こうとしたもう一団の人々。それが「世紀のスパイ」に献身的に尽くした石井花子ら女性だ。取り調べには協力する。だが、その代わりに自分が関係を持った女性には一切手を出してくれるな――。官憲との暗黙の了解があったのだろう。実際に、花子をはじめゾルゲの愛した女たちは誰一人起訴されなかった。彼女たちは取り調べは受けたものの、特高の厳しい追及は免れている。

 ゾルゲは独房の洗面台のふたを机に、便器のふたをイスにして、克明な記録を残している。いわゆる「ゾルゲの獄中手記」がそれだ。日本政府の中枢から極秘情報を入手した諜報活動を詳細に記している。だが、諜報団を率いた自らの責任を日本側に印象付ける記述が目立つ。その一方で、花子らが諜報活動に関与したことをうかがわせるものは全くと言っていいほど見当たらない。進んで自白してもいい。だが愛する者たちには手を触れるな――。そんな黙契が取調官とゾルゲの間にあったのだろう。それは散り際の美学を重んじる「ゾルゲ最後の戦い」だった。

 ゾルゲ逮捕の数週間前のある夜、彼は花子の目を見つめながら言った。「わたし、あなたのこと話しません。大丈夫!ゾルゲ強い男」。この言葉に重大な意味が秘められていたことを、花子は彼の死後、何年もたってから理解した。(花子の著書「人間ゾルゲ」から) 

売国奴と言われた諜報団

尾崎秀実(出所:三省堂「画報日本近代の歴史12」)

 このスパイ事件が一般の日本人に知らされるのは、ゾルゲ逮捕から7カ月後の1942年5月だ。日本はすでに太平洋戦争に突入していた。戦争一色の中で事件を公表した司法省は、「尾崎等の左翼分子が依然その信念を捨てず、かかる売国的所業に出たことは、その情、真に憎むべきもの」と強く批判した。ゾルゲ諜報団は「売国奴」と言われるようになる。

 国防保安法、治安維持法などで起訴されたゾルゲ、尾崎らの裁判は、国民に知らされないまま43年5月から別々の法廷で始まった。被告たちは拘置所から裁判所まで、顔が隠れる深編笠をかぶせられた。同9月、2人に死刑判決が下された。大審院(現在の最高裁)への上告が棄却され、2人の死刑が確定。

 尾崎は獄中書簡でこう書いている。

「裁判長の趣意は、命をもって国民にわびよというのです」

ゾルゲ

「弁護士さんが私とゾルゲと比べて『ゾルゲの方が腹が出来ているとの批評だ』とずばり言われた。もちろんゾルゲが腹の出来た珍しい人物だということには異論ありませんが、私自身まだまだ精進の余地があるのでしょう」(尾崎著「愛情はふる星のごとく」から)

 44年11月7日、敗色が濃くなる中、2人は帝政ロシアが倒された「ロシア革命記念日」の朝に相次いで絞首刑にされた。尾崎は紋付羽織はかまで、ゾルゲは背広姿で、2人とも落ち着いて死に臨んだ。

 ゾルゲは最期に日本語で「ソビエト・赤軍・共産党」と三度繰り返し唱えたという。処刑に立ち会った検事は革命記念日を選んだことについて戦後、「彼の最期にふさわしい日に思えた。武士道の情けという意味もあった」と語っている。それを聞いた花子は、ソ連人のゾルゲには通じないと感じた。(前掲「人間ゾルゲ」から)

引き取り手のなかったゾルゲの遺体

 尾崎の遺体は翌日、遺族に引き渡された。火葬場に運ばれて、夕方、骨となって帰宅した。一方、ゾルゲの遺体は引き取り手がなかった。処刑の報道はなく、花子は愛する人の死を知らなかった。ドイツ大使館は遺体の引き取りを拒否。ゾルゲが命を懸けて尽くしたソ連は、事件が明るみになっても日ソ中立条約を気にしてか、ゾルゲ諜報団について沈黙を通した。祖国に見捨てられたのである。用済みとなったスパイの悲しい運命だった。

雑司ケ谷霊園(向こうにサンシャイン60が見える)

 引き取り手のない死刑囚の遺体は、同拘置所の慣例で、近くの雑司ヶ谷共同墓地(現在の都立雑司ヶ谷霊園)に運ばれ、土葬された。東京はその後、激しい空襲に遭い、終戦。ゾルゲの埋葬地の上に立てられた小さな木の印は、いつの間にか引き抜かれた。ゾルゲは誰にも気付かれず、一人寂しく白骨化していった。

東池袋中央公園の戦犯慰霊碑

 処刑場跡地の公園の一画に「永久平和を願って」と彫られた石碑が建っている。ゾルゲと尾崎秀実のためではなく、巣鴨プリズンで戦犯として処刑された人たちの慰霊碑となっている。この地は「豊島区西巣鴨」だったが、1966年に「住居表示に関する法律」が施行されると「東池袋」に変更となった。東京拘置所が現在の葛飾区小菅に移転し、跡地の再開発で78年にサンシャインシティが誕生した。地名も建物も一変してしまい、超高層ビルの真下にある「ゾルゲ終焉の地」も忘れ去られようとしている。

現場へのルート 

最寄りは「東池袋」駅か「池袋」駅
サンシャイン60の裏側

 東池袋中央公園(豊島区東池袋3丁目)へは、地下鉄有楽町線東池袋駅の2番出口から徒歩5分程度。あるいは池袋駅の35番出口から歩いて15分ほど。後者はサンシャインシティへの道でもあり、いつも多くの人でにぎわっている。

 公園はサンシャイン60の裏側になる。公園に入って1分ほどで処刑場跡の慰霊碑がある。ゾルゲの時代の地図と比べてみると、東京拘置所跡地を同形でサンシャインシティに再開発したことが分かる。

 この公園から、ゾルゲが最初に埋葬された雑司ヶ谷霊園(同区南池袋2丁目)までは20分ほど。最寄りの駅は東池袋駅(霊園まで徒歩5分)、副都心線の雑司が谷駅(同10分)、都電雑司ヶ谷駅ならすぐ前だ。この霊園からサンシャイン60など池袋の超高層ビルが近くに見える。

 都心に近い大きな霊園で、夏目漱石や永井荷風らが眠っている。また東条英機の墓もある。

 なお、ゾルゲの墓は現在、多磨霊園にあり、雑司ケ谷霊園に痕跡は残っていない。

ゾルゲの時代の池袋周辺の地図(1933年。豊島区の雑司ヶ谷霊園MAPから)

バナー写真:サンシャイン60に隣接する処刑場跡地の公園