【勝海舟のパトロン】ライカ北紀行 ―函館― 第95回

畳といえば破れたものが三枚ばかり、天井はみんな薪(まき)につかい板一枚もなかったと、そのころ貧乏旗本であった勝海舟は、のちに『氷川清話』(講談社学術文庫)で語っている。これからこの書を種に語っていく。

勝のぼろ家をたずねた箱館の廻船問屋四代目、渋田利右衛門(りえもん)。勝と渋田は江戸日本橋の小さな古本屋で出会う。金がなく立ち読み常習の勝に、本屋の主がいつも本を買いこむお得意さまの渋田を紹介した。

子どものころの渋田は、本ばかり読む日々。親が書見を禁じ、両手を縛って部屋に閉じこめ飯も与えず叱ったが、そのあたりに落ちていた草双紙(くさぞうし)を足でひらき読んでいた。その姿に家業さえ怠らなければと書見を許された。

ぼろ家の勝宅を辞するとき、渋田は懐から金二百両(幕末の米価で換算すると、現在の80万円~200万円に相当)をさしだし、「これはわずかだが、書物を買ってくれ」と。

あまりのことに勝は声も出ない。「これで珍しい書物を買ってお読みになり、そのあと、私に送ってくだされば、何より結構」と無理やり置いて帰ってしまった。

「勝海舟像」(国立国会図書館蔵)
「勝海舟像」(国立国会図書館蔵)

勝が長崎海軍伝習所へ修業に旅立つとき、渋田はぞんぶんにご勉強なさいと励ました。だが、勝が長崎にいる間に渋田は亡くなってしまった。こんな残念なことは、生まれてからまだないよ、と勝は嘆いている。

ご維新となり勝は箱館奉行に話を通して、渋田の蔵書を奉行所で買いあげ、その子孫には帯刀を許すように取り計らったと、勝は語る。

勝は西郷隆盛と直談判して江戸城の無血開城をなしとげ、歴史にその名をのこした。

1926(大正15)年の暮、函館市中央図書館の開設者の1人、岡田健蔵が函館市中の市場で、表紙も表題もない雑多な束を見つけた。これは、渋田の自筆であった。これを綴じ、書名を『渋田翁雑録』とする。これには、手形など商売の断片的な記録やらが記されていた。

『渋田翁雑録』(函館市中央図書館蔵)
『渋田翁雑録』(函館市中央図書館蔵)

勝海舟と親交があった渋田利右衛門は、43歳で早逝し高龍寺に眠っている。

高龍寺の渋田利右衛門一族の墓(2021)
高龍寺の渋田利右衛門一族の墓(2021)

●道案内
高龍寺 市電「函館どっく前」下車、徒歩10分(地図へ

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