現代の萩焼:伝統工芸と高級芸術(ハイアート)の融合

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山口県萩市は独特の作風を持つ陶器が生まれた地である。同県在住の日本酒スペシャリスト、ジム・ライオンが2人の名工を訪れ、芸術的インスピレーションの源や、多様な日本の陶芸界における自らの作品の位置付けなどについて話を聞いた。

数世紀にわたる伝統と現代の職人技

山口県萩市は萩焼の産地としてよく知られている。萩焼の起源は1604年にさかのぼり、地元藩主の毛利輝元によって朝鮮から招かれた2人の兄弟、李勺光と李敬が、朝廷や幕府に納める器を焼く御用窯を築いたことが始まりとされている。萩焼の伝統は、彼らが日本にもたらした技法から生まれた。

萩焼の温かみは、地元の比較的粗い土から生まれた自然な色合いと、うわぐすりが作り出す淡褐色や白、水色などの柔らかな色調によって醸し出されている。特徴的なのが、「萩の七化け」という現象。萩焼には、うわぐすりの表面に「貫入(かんにゅう)」と呼ばれる細かなひびが入っているおり、お茶をたてるたびに抹茶がひびに徐々にしみ込む。そのため、茶葉に含まれる酸と土の鉄分が反応し、長い年月を経て器の色が変わる。

こうした微妙な変化に加え、土とうわぐすりが織りなす自然な風合いが、歴史あるさまざまな茶器の中で萩焼が特に珍重されてきた理由である。また茶道の世界には「一楽、二萩、三唐津」という日本の茶わんを格付けする言葉もあるなど、萩の陶器は国内で古くから深く愛され、最近は海外でも人気が高まっている。

しかし、よく調べてみると、現代の萩焼は必ずしもその伝統の枠にすんなり収まっているわけではない。20世紀、特に第二次世界大戦以降、萩の陶工たちは伝統の継承に抵抗するようになり、単に茶器を作る職人としてではなく、芸術家としての創造的自由を求めた。

ろくろを使って作陶する波多野英生さん
ろくろを使って作陶する波多野英生さん

天寵山(てんちょうざん)窯の兼田昌尚さんは「第二次大戦後、陶芸家の下に生まれた子どもたちは大学で芸術を学ぶようになりました。そして故郷に戻ってきた時には、伝統工芸の枠の中で抑制されていた創造性や自由について新しい考えを抱いていたのです。萩では、三輪家(萩焼の名門)が新しい考えの先駆者と言えるでしょう」。兼田さんによると、三輪壽雪(第十一代三輪休雪)は、京都や他の陶器の産地で目にしたクリエーティブな作品に感化され、自らも新たな表現を模索した。そして生まれたのが第十一代休雪の『鬼萩』である。萩焼の伝統である柔らかさが抑えられ、深みのある黒い土に白いうわぐすりが厚く塗られているのが特徴だ。

京都にある「ロバート・イエリンやきものギャラリー」のオーナーで、日本陶器に関する著作や講演もしているロバート・イエリン(Robert Yellin)さんは、三輪家や兼田さんのような芸術家の影響によって、伝統的な作風の萩焼に抽象的で文化的な作品が加えられたと説明する。しかし同時に萩焼は、現在も茶器を中心とした保守的な工芸品であり続けている。

工芸と芸術のバランスについてさらに掘り下げるため、兼田さんともう1人の陶芸家、波多野指月(はだのしげつ)窯の波多野英生さんに、自らの作品における工芸と芸術とのバランスについて話を聞いた。

伝統工芸を守る

波多野さんは1971年に萩で生まれた。父親の善蔵さんは佐賀県出身で、唐津で焼き物を学んだ後、萩に移り住み萩焼の陶芸家になった。善蔵さんは2002年に山口県の無形文化財保持者に認定されている。一方、英生さんは、東京の多摩美術大学を卒業後、京都で陶芸を学んだ。現在は、萩の中心地にある窯元で父親と作陶に取り組んでいる。イエリンさんいわく、波多野さんの作品には、父親の伝統的な作風に加えて、斬新な風合いと色調が相まった彫刻のような趣が備わっている。

実用品を作ることと創造性の追求とのバランスについて波多野さんに尋ねたところ、「私は常に使うことを考えながら茶わんや皿を作っています」という答えが返ってきた。「例えば、ぐいのみを作るときはいつでも、これを使って飲む酒はどんな味がするのか、この形の口縁はどんな感触だろうかと想像します。そして焼き上がったら必ず試し飲みをします」。とっくりに酒を満たして注ぎやすさを見たり、ぐいのみに好みの酒をついでじっくりと試飲したりすることもあると言う。「使わなければ完成品とは思えません。料理を盛らなければ皿とは言えないでしょう。料理の収まりや、陶器との相性も大切です。何かを作るときはそれら全てのことを考えます」。難しいのは、その制約の中で自己を表現することである。

歴史を感じる波多野さんの工房。芸術と実用性を兼ね備えた作品がここで生まれている。
歴史を感じる波多野さんの工房。芸術と実用性を兼ね備えた作品がここで生まれている。

波多野さんの作品は、デザインと作風にはっきりとした特徴がある。工芸に重点が置かれ、そこに芸術が加えられている。芸術的な表現は、うわぐすりによる質感や素朴な土が見せる豊かな表情など、伝統的な形に変化を加えることによって、もたらされている。波多野指月窯に展示されているのは全て機能的な作品だ。

とはいえ、中には独特のフォルムをした目を見張る作品もある。「なるべく作品には芸術的表現を加えたいと思っています。ただ、時々少し度を越してしまうんです。窯から取り出した作品を見て、やり過ぎたと思うことがあります」。波多野さんの作品には伝統的技法に沿ったものが多く、実際、伝統を語る彼の言葉には畏敬の念が感じられた。「焼き物は自然と文化を結び付ける役目を果たしています。土が熟練した手によって形を与えられ、それが人々の生活を支えているのです」。焼き物は生きる上で最も基本的な「飲食」という行為につながっている。波多野さんは、自分が受け継いだ伝統は守る価値があるものだと話す。

芸術的理想への到達

1953年生まれで萩焼窯元の八代当主である兼田さんも、他の同世代の陶芸家同様、父親の窯元を継ぐ前は大学で彫刻を学んでいた。83年、伝統的なろくろでの作陶に満足できなくなり刳貫(くりぬき)と呼ばれる新たな技法を考案した。刳貫は、土の塊をたたき締めて成形した後、内側をへらやかんなでくりぬいて、器や花瓶、大きな彫刻作品を作り出す。迫力のある作品が生み出される一方で、萩の土の柔らかな色調と質感は保たれている。

兼田さんの作品は、伝統的な萩焼のうわぐすりが放つ存在感と色調を残しながら、大胆さも感じさせる。
兼田さんの作品は、伝統的な萩焼のうわぐすりが放つ存在感と色調を残しながら、大胆さも感じさせる。

イエリンさんは「兼田さんは先見的な陶芸家です。これまでも現在も、代々続く窯元を芸術の世界に導くことを恐れていません。八代目窯元として、父親の極めて伝統的な作品を見てきた彼にとって、そこから脱却し、兼田家だけでなく、萩の伝統までも大胆に作り変えてしまうのは、さぞ勇気がいったことでしょう」とたたえる。

「私が第一に考えるのは創造性です」。芸術的表現と最終的な使い勝手とのバランスについて尋ねると、兼田さんはこう答えた。「私の作品を使う人には我慢してもらわなければなりません。確かに飲みづらい茶わんもあると思います。例えばこのぐいのみだと、2、3杯飲んだ後、怒って壁に投げつける姿が目に浮かびます」と笑った。でこぼこの口縁に不規則な三角形のフォルム。日常的に使うのは難しいだろう。彼が作っているのは芸術作品だ。最も大切なのは形で、機能性は二の次だ。実際、彼は冗談交じりに、2つのバランスをどう取ればいいと思うかと私に尋ね返してきた。

「私が行っているのは創作です。機能性は考慮しません。例えば花瓶を作るときは視覚的に好ましいかどうかを考えて、口の部分を閉じたままにすることもあります。私の作品に実用性は必要ありません。あるがままです。何かの目的で使ったのなら、それがその用途になります。全て使い手次第です。私はただ面白いものを創りたいのです」

最も代表的な作品を見せてほしいと頼むと、ギャラリーに続く通路に案内された。そこには小部屋があり、その中央に高さ1メートルほどの円すい形をした作品が置いてあった。オレンジ色の粗い土で作られ、真ん中は空洞になっている。まるで土で作った火山の彫刻だ。このような作品は使い道がないように思える。器にしては大き過ぎるし、何かを入れるにしても形があまりにも不規則だ。しかし一方で圧倒的な存在感を放ち、彫刻のような曲線とギザギザした開口部からは強い芸術的意図が感じられる。

兼田さんは、創作は戦いだと言う。「自分がしたいことと土が望むことのせめぎ合いです。土が勝つことの方が多いですね。私が楽勝するときもありますが、そんなときはあまり面白い仕上がりにはなりません」

兼田昌尚さんと展示作品の一部
兼田昌尚さんと展示作品の一部

この作品以外にも、彼のギャラリーには大きく波打つフォルムの作品がいくつかある。長さ1メートルに膨らんだ「勾玉(まがたま)」を連想し、台座の上で不安定にバランスを取る抽象的な小舟のようでもある。まるで萩焼の限界を試しているようだ。他の作品同様、土が持つ温かな風合いが保たれ、同じようなうわぐすりが使われているが、形や大きさは桁外れだ。

「この作風を始めた頃、年配の陶芸家たちは私の作品を萩焼だと認めようとしませんでした。でも私は萩の土とうわぐすりを使い、萩の地で作陶しています。ですからもちろん萩焼です」

萩焼の定義

定義の問題に直面しているのは兼田さんだけではない。波多野さんも従来とは異なる色や手法を取り入れており、深みのある黒い土に真珠光沢のあるうわぐすりを施したぐいのみや、一方に傾いた立方体の器、朱色のウサギの形をした和菓子入れなどがある。「伝統的な萩焼には見えないかもしれませんが、全て地元の土とうわぐすりを使って作っています」と波多野さん。これらが萩焼でないなら、何と呼べばいいのだろう。

これは次世代の萩焼陶芸家にとって未解決の問題である。「若い陶芸家たちは電話やメールでどこからでも土やうわぐすりを取り寄せることができますし、新しい色調や質感の作品もあります。それでもこの地で作陶している以上、彼らが作っているのは萩焼です。古い人たちが何と言おうが気にしません」。しかし、そういう兼田さんも現在68歳で、現代萩焼の世界では古参だ。

「この年になると、自分の作品が受け入れられようがなかろうが、どういうレッテルを貼られようが気になりません。私の作品であることに変わりはなく、他の人が萩焼と呼ぼうが別の呼び方をしようが関係ありません」。しかし彼には気になるレッテルが1つある。「何でも陶器とひとくくりにしないでもらいたいですね。型を作って焼いてあるから陶器と呼ぶのでしょうが、彫刻と呼んでもいいのではないでしょうか」

では、萩焼とは一体何だろう。萩で作られた陶器を指すのだろうか。それとも鑑定家が重視する土、うわぐすり、または「七化け」の特徴を持つ作品のことだろうか。

定義が何であれ、兼田さんや波多野さんのような芸術家は、伝統の中で独自の道を歩み続けている。抽象芸術であろうが、精巧に作られた茶わんであろうが、彼らの作品は唯一無二であると同時に、400年を超える伝統に深くしっかりと根付いている。

波多野指月窯

天寵山窯

ロバート・イエリンやきものギャラリー

写真=筆者撮影
原文英語
バナー写真:杯を作る波多野英生さん

陶器 芸術 陶芸 山口県