醸造の町・長岡「摂田屋地区」:再発見された機那サフラン酒本舗の魅力

歴史

米どころとして知られる新潟県長岡市にある「摂田屋(せったや)」は、古くから醸造業が盛んな町。歴史的建物や蔵が並ぶ風景は旅愁を誘い、散策を楽しむ人も多い。近年は“日本一の鏝絵(こてえ)”と評判の土蔵を持つ「機那(きな)サフラン酒本舗」の公開によって、人気がさらに高まっている。

醸造業で繁栄した街道沿いの町

長岡市の中心地から南へ4キロほどにある摂田屋は、明治・大正期の建物や蔵が残り、こうじの匂いと共に懐かしい雰囲気が漂う。この町で生み出される味は、新潟人にとっては古里の味でもある。470年以上の歴史を持つ「吉乃川」の酒、天保2(1831)年に創業した「越のむらさき」のだし醤油など、長年親しまれてきた醸造製品は、いまや全国に多くのファンを持つ。

長岡市の第1回都市景観賞に輝いた、明治10年完成の越のむらさきの主屋と蔵(登録有形文化財)。蔵の前に立つれんが造りの煙突は、摂田屋のランドマーク的存在だ
1877(明治10)年に完成した越のむらさきの社屋(主屋と蔵は登録有形文化財)。蔵の前に立つれんが造りの煙突は、摂田屋のランドマーク的存在だ

越のむらさきの隣にある竹駒稲荷。右のきつねには子ぎつねが寄り添っていてかわいらしい
越のむらさきの傍らにある竹駒稲荷。右のきつねには子ぎつねが寄り添っていてかわいらしい

摂田屋は、信濃川近くの旧三国(みくに)街道沿いに位置する。三国街道は高崎(群馬県)で中山(なかせん)道につながるため、江戸時代には長岡藩をはじめ北陸の諸藩が参勤交代でも使用した。町の名の由来は、旅人をもてなす「接待屋(せったいや)」が転じて「摂田屋(せったや)」となったという説が有力である。

水路・陸路共に便利な場所柄、江戸幕府が直接管理し、徳川家の菩提(ぼだい)寺・上野寛永寺の寺領となった。日本有数の米どころで良質な地下水もあり、藩政の影響を受けない規制の緩い地域なため、酒や味噌、醤油などの醸造業を中心に商業で栄えたという。

越のむらさき前のお地蔵さまは、三国街道の道しるべ。台座には「右ハ江戸、左ハ山路」と彫ってある
越のむらさき前のお地蔵さまは、三国街道の道しるべ。台座には「右ハ江戸、左ハ山路」と彫ってある

味噌やしょうゆを製造する「星野本店」前には大きな木桶(おけ)が置いてある。左奥に見える蔵(登録有形文化財)は、珍しい3階建て
味噌や醤油を製造する「星野本店」前には大きな木桶(おけ)が置いてある。左奥に見える蔵(登録有形文化財)は、珍しい3階建て

摂田屋は明治以降も繁盛した。市街地の大部分が焼失した太平洋戦争末期の長岡大空襲でも奇跡的に被災を免れた。現在も営業を続ける5つの蔵元では、主屋や蔵が国の登録有形文化財に指定されており、伝統の製法とともに歴史ある建物も大切に維持している。

「越後雪紅梅」で知られる長谷川酒造の主屋(登録有形文化財)は、1886(明治19)年に建てられたものを大正末期に改修した
「越後雪紅梅」で知られる長谷川酒造の主屋(登録有形文化財)は、1886(明治19)年に建てられたものを大正末期に改修した

昔ながらの製法を守る「味噌星六」は、星野本店から分家した際に譲り受けた蔵が登録有形文化財の指定を受ける。グルメ漫画『美味しんぼ』でも紹介され、全国的な知名度を誇る
昔ながらの製法を守る「味噌星六」は、星野本店から分家した際に譲り受けた蔵が登録有形文化財の指定を受ける。グルメ漫画『美味しんぼ』でも紹介され、全国的な知名度を誇る

再発見された摂田屋観光の目玉

2004(平成16)年の中越地震では各蔵元の建物に被害が出た。しかし、それがきっかけとなって、NPO法人「醸造の町摂田屋町おこしの会」が設立され、地域の人が協力して復興に力を注いだ結果、摂田屋に新たな魅力が加わった。それが、「機那サフラン酒本舗」の再発見だ。

左が機那サフラン酒本舗の主屋で、右が鏝絵の蔵。外観は平日でも見学できる。「機那」はマラリアの特効薬・キニーネの原料となる「キナ」の木の当て字。明治時代はサフラン同様に高価な舶来品で、ブランド力を付加するために商品名に冠したという
左が機那サフラン酒本舗の主屋で、右が鏝絵の蔵。外観は平日でも見学できる。「機那」はマラリアの特効薬・キニーネの原料となる「キナ」の木の当て字。明治時代はサフラン同様に高価な舶来品で、ブランド力を付加するために商品名に冠したという

鏝絵の蔵の北面は、十二支の動物や植物がモチーフとなっている
鏝絵の蔵の北面は、十二支の動物や植物がモチーフとなっている

創業者の吉澤仁太郎は1863(文久3)年、摂田屋の隣にある古志郡定明村で生まれた。17歳で勤めた薬種屋で漢方を学び、サフランや桂皮(けいひ)、丁子、はちみつなどを調合した薬用酒「機那サフラン酒」を商品化し、成功を収める。

1894(明治27)年に摂田屋へ移転するとウイスキーやワインも手掛けるようになり、「銃印葡萄酒」も大ヒットさせて財を成す。研究熱心かつ行動力あふれる仁太郎に、江戸時代から続く摂田屋の自由な気風は合っていたのだろう。趣味の建築や造園にものめり込み、2300坪にも及ぶ敷地に贅(ぜい)を尽くした庭園と数々の建造物を築いた。

休日のみ入場可能な庭園は、仁太郎の独創的な美学があふれている。石像の中には自身で作ったものもあるそうだ
休日のみ入場可能な庭園は、仁太郎の独創的な美学があふれている。石像の中には自身で作ったものもあるそうだ

庭園に面した離れ座敷は、唐破風屋根の玄関が特徴的。屋根の両脇にはしゃちほこが乗っていたが、現在は耐震の問題で外してある
庭園に面した離れ座敷は、唐破風屋根の玄関が特徴的。屋根の両脇にはしゃちほこが乗っていたが、現在は耐震の問題で外してある

仁太郎は1941(昭和16)年に78歳で死去し、戦後は事業も衰退する。吉澤家の子孫は広大な敷地をなんとか守り続けたが、立派な石垣に囲まれた庭園や建物の管理までは手が回らず、閉ざされたまま荒廃し、地元の人たちもその存在を忘れかけていた。

震災によって、鏝絵(こてえ)で彩られた土蔵の漆喰(しっくい)が崩れ落ちるなど、庭園全体がダメージを受ける。しかし、修復に掛かる費用は個人のレベルで工面できるものではなかった。

土蔵より先に鏝絵が施された主屋南側の衣装蔵。こちらは修復前のため、漆喰がはがれ落ちている
土蔵より先に鏝絵が施された主屋南側の衣装蔵。こちらは修復前のため、漆喰がはがれ落ちている

現地を視察した町おこしの会は、初めて近くで眺める鏝絵に感動し、「後世に残さねば」と文化財登録を目指す。2006(平成18)年、鏝絵の蔵は国の登録有形文化財の指定を受け、補助金で無事修復された。

09年からは、地域住民と大学生ボランティアによって庭園の草むしりや清掃が始まる。仁太郎の美学の詰まった魅力的な本舗全体が徐々に姿を現し、建物内部からは古い書物や美術品など貴重な資料も数々発見された。13年には「機那サフラン酒本舗保存を願う市民の会」も結成され、整備作業を進めながら、15年からは休日限定で一般公開を開始。“日本一の鏝絵”との呼び声も高い土蔵が話題となり、全国から見物客が訪れるようになった。

土蔵東側の鏝絵は、龍と鳳凰(ほうおう)、麒麟(きりん)、玄武。作者は近所に住んでいた左官職人・河上伊吉で、仁太郎の美意識に共感した大親友だったという
土蔵東側の鏝絵は、龍と鳳凰(ほうおう)、麒麟(きりん)、玄武。作者は近所に住んでいた左官職人・河上伊吉で、仁太郎の美意識に共感した大親友だったという

土蔵の内部は展示スペースになっている。古い看板や広告などに加え、建物内から発見された調度品なども並ぶ
土蔵の内部は展示スペースになっている。古い看板や広告などに加え、建物内から発見された調度品なども並ぶ

観光地として発展続く摂田屋

機那サフラン酒本舗の土地・建物は2017(平成29)年に長岡市が取得し、保存整備計画をスタートした。プロジェクト第1弾として、米蔵を改装した「摂田屋6番街 発酵ミュージアム・米蔵」が20(令和2)年10月にオープン。今後約10年を掛け、残りの9つの建物や庭園も整備していく。

摂田屋の観光拠点となる「米蔵」。左の通路の奥には、市営摂田屋駐車場が隣接する
摂田屋の観光拠点となる「米蔵」。左の通路の奥には、市営摂田屋駐車場が隣接する

内部には摂田屋観光案内所の他、地元食材が味わえる「おむすびカフェ」や発酵について楽しく学べるラボなどがある
内部には摂田屋観光案内所の他、地元食材が味わえる「おむすびカフェ」や発酵について楽しく学べるラボなどがある

米蔵と隣接する市営摂田屋駐車場の向かいには、吉乃川の酒ミュージアム「醸蔵(じょうぐら)」も19年10月に開館している。大正時代に建造された巨大な倉庫は、三角形の鉄骨で屋根を支えるトラス工法が特徴の国の登録有形文化財。創業1548(天文17)年の吉乃川の歴史や日本酒の製造方法について解説する展示スペースには、古い酒造りの道具や歴代の酒瓶など貴重な史料も並ぶ。

かつて酒の瓶詰作業が行われていた「常蔵」(大正12年建造)をリノベーションした醸蔵
かつて酒の瓶詰作業が行われていた「常蔵」(大正12年建造)をリノベーションした醸蔵

展示スペースの横にある「SAKEバー」では、吉乃川の定番商品からここでしか飲めない特別な酒まで、有料でテイスティングが楽しめる
展示スペースの横にある「SAKEバー」では、吉乃川の定番商品からここでしか飲めない特別な酒まで、有料でテイスティングが楽しめる

吉乃川を代表するブランド「極上吉乃川」。売店では、醸造限定販売の酒や地元企業とのコラボ商品も取り扱っている
吉乃川を代表するブランド「極上吉乃川」。売店では、醸蔵限定販売の酒や地元企業とのコラボ商品も取り扱っている

仁太郎の一番の趣味は花火で、長岡の花火大会で三尺玉を最初に打ち上げたと言われている。1903(明治36)年には厄払いと称して花火を打ち上げ、戊辰(ぼしん)戦争の際に長岡藩が本陣を置いた光福寺を全焼させてしまったそうだ。なんとも、仁太郎の人柄が伝わってくるような逸話である。

旧三国街道の美装化など地域全体の環境整備も進んでおり、散策の休憩場所となる摂田屋公園には木桶型のユニークなトイレも設置されている。コロナ収束後には、観光名所として発展を続ける摂田屋の“今”を眺めに、出掛けてみてはどうだろう。

長岡藩は小千谷談判が決裂した後、光福寺を本陣として、新政府軍が占拠していた榎峠を奪還した
摂田屋の名刹・光福寺。長岡藩は小千谷談判が決裂した後、この場所を本陣として、新政府軍が占拠していた榎峠を奪還した

摂田屋公園の「桶のトイレ」。公園内には摂田屋の歴史などを解説する案内板もある
摂田屋公園の「桶のトイレ」。公園内には摂田屋の歴史などを解説する案内板もある

取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部

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